京都大学 2023[二]解答例と解説

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総評

全体的に面白い課題文だな〜て読んでました。「宗教による自己変容からものの見方が変わる」みたいな話はまぁ「よくある」ことかとは思うのですが、その捉え方を一段押し進めて、数学的な思考も大きく捉えたら(人間の身を媒体とした)自然的現象の一つなんじゃね?って発想なのかな〜と私は捉えてます。問三や問五がその核心に迫っており、なかなか手強い設問かと思いましたが、その分大層興味深くもあります。なんとか理解していきましょう!

解答例と解説

問一

地道な勤行を積み重ねることで得られた宗教による深い自己変容により、自身のものの見え方が変わり、それまで混然としていた考えが整理されて、心の中で理解した感覚を得ること。

傍線部の次の段落の後半が主要な解答箇所になります。「自己の深い変容により、数学的風景の相貌がガラリと変わり、結果として、それ以前にはわからなかったことがわかるようになる」です。

肉付けをするとすると、傍線部前の岡自身の叙述「宗教によって境地が進んだ結果、ものが非常に見やすくなったという感じ」、傍線部同段落末尾の「下から地道に積み上げていくうちに視界が開けるようなわかり方」などです。これらを組み合わせて作っていきましょう。

また、傍線部自体が「情操型の発見」なので、どちらかと言うと「ロジカルにわかる」ではなく「感覚的にわかる」に近いものだと思います。よって「心の中で」や「感覚的にわかる」といった言葉をつけています。

部分点

〈地道な勤行を積み重ねることで得られた〉〈宗教による深い自己変容により〉、〈自身のものの見え方が変わり〉、〈それまで混然としていた考えが整理されて〉、〈心の中で理解した感覚を得る〉こと。

なくてもまぁ耐えな部分点かとは思いますが、「地道な勤行を積み重ねることで得られた」は「下から地道に積み上げていくうちに視界が開けるようなわかり方」から取っています。冒頭にも「農耕と、数学と、念仏三昧の日々」とありますし。

また、「それまで混然としていた考えが整理されて」もなくても大丈夫な気がします。これは岡が得た「感覚的にわかる」をもう少し細かく説明する部分ですが、「牛乳に酸を入れたときのように、いちめんにあったものが固まりになって分かれてしまったといったふう」から説明し直しています。

蛇足かもですが、「不定域イデアル」はこのような考え方そのものを指すのではなく、このような考え方を通して考えだされた理論のようです。不定域イデアルについてちょっと調べましたが、数学の論文しか出てこなかったので……笑(参考にしている解答解説が、この点を有耶無耶にしている印象を受けたので調べました)

問二

自然世界のものの動きは難解な数式を膨大に計算しても計算しきることはできないのに、実際の自然界はいとも容易く効率的にその結果を導出しているように思われるから。

「不思議である」と岡が感じたのは何故か、という設問ですので、(小説文でよく使う)人間の心情理解の枠組みが使えそうです。

【人間の心情理解の枠組み】
①前提 ②出来事 ③心情 ④行動

「不思議だなあ」と思うときは、「こうであるはずなのに、実際はこうである」のような、前提(となる認識)と出来事(というよりは状態)のズレを想定できます。人間が水滴の描く流線や速度を計算しようとすれば、さまざまなことを考慮して複雑な計算をしなければならない(岡の晩年当時、ある程度近似(捨象)したとしても、現実的な時間内に計算し切ることはできない)のに、自然界はその計算結果を(実際の小川の流れとして)いとも簡単に目の前に提示しており、その乖離の大きさが岡にとっての不思議さを引き出しているのではないでしょうか。膨大な計算が必要なはずのプロセスの結果が、眼前に即時に現れていてやべ〜って感じです。

全体的に、岡の講義内容を少し一般的な記述として書き直すような設問だと思います。

部分点

〈自然世界のものの動きは難解な数式を膨大に計算しても計算しきることはできない〉のに、〈実際の自然界は〈いとも容易く効率的に〉その結果を導出している〉ように思われるから。

「いとも容易く効率的に」としましたが、「効率的に」のみでも大丈夫かと思います。人間が計算する場合「厄介な偏微分方程式を」「膨大な時間をかけて」解かないといけないという点の対比を明瞭にする形で「容易く」「効率的に」としている感じです。

また、「岡潔が感じたのはなぜか」という設問なので、文末表現は「ように(岡潔にとって)思われるから」としています。これはマストではないかと思いますが、筆者視点や読者(我々)視点で「なぜこのように言えるのか」ではなく「このように岡潔が感じたのはなぜか」という設問であることを踏まえています。「〜と思われる」という受け身の表現は、主体(主語)を明示しないことができますので、今回は意識的に受け身にしてみまして、(岡潔にとって)と(筆者や読者にとっても)の間に幅を持たせて、少し遊び(内容を確定させない余白)のある記述にしてみました。

問三

人間の数学的思考も、環境との相互作用として身体上で行われる非記号的な認知やその反応と同様に、身体化された非記号的なプロセスの結果だと言えるということ。

「数学的思考もまた、この例外ではない」なので、「数学的思考も、〜と同様に、〜なものであるということ」とまとめています。

本文全体に関わる理解になるので、丁寧にいきましょう。まず、問二から続く内容として、例えば(小川のせせらぎや)ボールを投げた時の軌道を計算するのは膨大な計算資源が必要ですが、実際にボールを投げてみれば、その計算結果は眼前に示されます。その意味で、自然界はまさに「自然に」それ自体として計算を行い、その結果を導出することができると捉えられます。

自然界がそうなのであれば、人間もまたそうだというのが岡の捉え方です。まぁ我々も自然現象の一環であると捉えれば、例えば我々が物を持ち上げるのも、複雑な物理現象の組み合わせであり「計算の結果」であると捉えられます。人間の腕が物を持ち上げる時の物理演算とか、やってみることはできるでしょうし。

ここでジャンプがありますが、そうであれば「(数学的)思考」もまた、そうなんじゃないかという話です。思考って、ニューロン間の電気信号の結果とかなのかもしれない(詳しく知らないので怒らないでください笑)んですが、とりあえずこの物理世界で起こっている事象ではありますよね? つまり、思考もまた、ボールを実際に投げれば結果が導出されるように、「自然界にある現象としての身体」を通せば、ありのまま導出されるのではないか?というのが岡の経験と筆者の捉え方です。

ここからはあくまで私の捉え方ですが、ここでの数学的思考の捉え方では、自身の身体を「自然的な関数」みたいに捉えてるのかな〜と思ってます(ここでの関数は、ある入力を行うとそれに対応する出力を行うプロセスとして捉えています)。例えばボールを実際に投げるという入力を行うと、自然は「ボールの軌道」という計算結果を導出します。これを関数みたいに捉えて、「自然界ボールの軌道関数」としましょう。もちろん投げる角度や力の大きさによってボールの軌道は変わりますが、「自然界ボールの軌道関数」はその入力に応じて、極めて正確に(というよりはそれ自体が正解として)リアルタイムで結果を目の前に示してくれます。

とすると、我々の身体も、自然界の一部として思考の関数になり得るんじゃないでしょうか? 例えば数学的問いを私の身体に入力します。私は自然界の一部ですから、その数学的思考を「自然に」行い、答えを「自然に」導出することができるのでないでしょうか。その時私の身体は、数学的問いという入力に対して、自身の身体を関数の自然的媒体として、数学的思考の結果に自然にたどり着けるのではないか、というのが概ね筆者の見方かと思います。

皆さんの「なるほどわからん」もしくは「できるわきゃねーだろ!」という思いが想定されたので、ちなみに申し上げておくと、私の身体に数学的問いを入力しても、数学的思考の結果は自然に導出されません。なぜかというと私は数学的思考の自然な媒体としては精度が低い(岡の言葉で言えば「境地」の程度が低い)からです。問一で見た岡の「情操型の発見」は、宗教や数学を通して自身の「数学的思考の自然な媒体としての境地」を高めていった結果と言えます。問五にも繋がりますが、だからこそ、数学的思考を推し進めていくためには、「数学的思考の自然な媒体としての自己」を磨いて(純度を上げて)いけば良い、という発想になっていきます。

内容に関してなんとなく掴めた気分があれば幸いです。実際の記述内容にまだ触れられていないので、部分点の方の解説に譲ります。

部分点

〈人間の数学的思考〉も、〈環境との相互作用として〉〈身体上で行われる非記号的な認知やその反応〉と同様に、〈身体化された非記号的なプロセスの結果〉だと言えるということ。

本文では「認知」とは「身体と環境の間を行き交うプロセス」として定義されています。我々も、自然界(環境)から何らかの入力を受け、何らかの反応を返しますが、それを「認知」と読んでいる感じですね。

その中で「身体化された、非記号的な認知」は、あんまり一般的な「認知」には含まれないかもしれませんが、例えば人間が各筋肉の動き一つ一つを意識しなくても自然に物を持ち上げられるように、(時に意識上の動作の前提となる)意識以前の「身体と環境の間を行き交うプロセス」と言えるかと思います。

長々と上述してきましたが、ボールを投げれば「自然に」ボールの軌道が導出される、物を持ち上げようとすればたくさんの筋肉の動作(という自然現象)の結果として「自然に」ものを持ち上げられるのと同様に、数学的思考もまた、身体を媒体とする無意識的な(非記号的な)認知を経て「自然に」導出されるものなんじゃね、というのが大意です。

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問四

自他や時空間といった人間的な区別という意識的な障害を廃しつつ、芭蕉が自己と生涯を媒体として自然をそのままとらえ、その結晶を特定の句形に瞬時に延べ広げるというようにして。

別の例として芭蕉が句を詠む話になりましたが、岡潔にとっての数学的思考と根本は同じような仕組みをとっているという話ではあります。

芭蕉の句の詠み方は、「ただ芭蕉の全生涯を挙げて『黄金を打ちのべたように』して"導出"される」とあります。しばらく後の「生きた自然の一片をとらえてそれをそのまま五・七・五の句形に結晶させる」という説明もこの話に重なり、さらに言えば問三で見てきたような「数学的思考」の話とも、「導出」という語において共通の部分があります。

これは、「数学的思考も、自身の身体を自然界の中の媒体として、非記号的な認知に任せれば、答えが導出されるんじゃね?」というのと同様に、「芭蕉が自身を媒体として、眼前の生きた自然の欠片をそのまま取り込んで、句形という形に合わせて広げるだけで句ができるんじゃね?」という発想です。問三で、身体は非記号的な認知を行う媒体(私の捉え方では「関数」とする見方を付け加えました)として捉えられていましたが、ここでは芭蕉に「眼前の自然の欠片」を入力すれば、芭蕉の非言語的認知を媒体とする関数として、「句」が出力される、というような感じです。

また、「時間や空間、あるいは自他の区別に拘っていては、それが意識の流れをせき止める障害となる。逆に、そうした区別にとらわれなければ、自然の意識が『無障害』のまま流れ込んでくる」とあり、芭蕉はそのような峠を越えて境地に至っているともされています(逆に言えば、その境地に至っていないからこそ、芭蕉以外は芭蕉のような芸当はできないということです)。この点も素直に盛り込むのが良いかと思います。

部分点

〈自他や時空間といった人間的な区別という意識的な障害を廃し〉つつ、〈芭蕉が自己と生涯を媒体として〉〈自然をそのままとらえ〉、〈その結晶を特定の句形に〈瞬時に〉延べ広げる〉というようにして。

「人間的な区別」は、自然と対比する形で割と私が補っているので、なくても文として通ればまぁ大丈夫な気がします。「自己と生涯を媒体として」も、かなり密度を上げてすっきり言い換えているのですが、「芭蕉がここまで高めてきた生涯を踏まえた自己を通して句を展開している」ということがわかれば大丈夫です。「瞬時に」という要素も後からハマりがいいところに追加したのですが、「まさに電光石火の如しである」とあるので、入っていた方が良いかと思います。

少し変な聞かれ方をしているので、文末表現は割と広く許容される気がしますが、「どのようにしてできたと考えられているか」なので、一番スタンダードなのは「〜のようにして。」なのかな〜と思いました。助詞で終わるのが気持ち悪ければ、「〜のようにしてできたと考えられている。」まで書いた方がいい気がしました。なぜかと言うと、「〜ようにしてできた」だと芭蕉の句の詠み出し方がとても客観的な事実のように主張されている感じになり、もともとの設問である「(岡潔、もしくは筆者、もしくは我々にとって)このように考えられている」という主観のフィルターを解答に残せなくなってしまうからです。でも、理由を答える設問の時に「〜から。」で終わるのが普通なように、「〜のようにして。」も問題ないと思います!

問五

数学的思考は、自らの存在を媒体とする自然な非記号的認知プロセスによって導出されることで押し進めることもできるため、自己を見つめ直したり涵養したりすることがそのまま数学研究になるということ。

本文全体を踏まえるので、問一〜問四の内容を総ざらいして考えていきましょう。

そもそも、傍線部は「数学研究が即ち自己研究なのである」であり、「数学研究=自己研究」の構図を説明できれば良い感じです。問一の「情操型の発見」において、岡は勤行による自己変容の結果、「(通常の)記号的・意識的な数学的思考ではなく、自己を媒体として数学的な答えが『導出』される」という経験をしました。そして問三のように、「数学的思考」を行う自己を、「自然な媒体」として、「非記号的な思考」をその身体に自然に流せば、(投げたボールがその軌道を計算結果として眼前に示すことと同様に、)数学的思考は果たされると言えます。このプロセスは芭蕉が句を詠むプロセスと同様ですが、それも媒体としての主体(つまり岡潔や松尾芭蕉)が積み上げてきた生涯の結果であり、「境地」と言えるものです。ここを逆に言えば、一定の「境地」に達するには(岡潔が勤行を通してしたような)自己研鑽が必要であり、それを突き詰めることで、数学的思考(あるいは俳諧の詠出)がより高水準で可能になるということです。

よって、「自己を高める」ことが数学研究になると言え、自己を高めるために自己を見つめ、より高水準の媒体となるためにどうすれば良いかを考える(および実行する)ことが、それ即ち結果的に数学研究であるという感じですね。

部分点

数学的思考は、〈自らの存在を媒体とする〉〈自然な非記号的認知プロセスによって導出されることで押し進めることもできる〉ため、〈自己を見つめ直したり〈涵養したり〉することがそのまま数学研究になる〉ということ。

部分点に分けるのむずかし〜と思いました。笑

基本的には問三の「(数学的思考は)非記号的な認知プロセスによって導出される」という内容と、問一を手がかりとする「自己を見つめ直したり、涵養したりすることがそのまま数学研究になる」という内容が入っていれば良いのかなと思います。

「自らの存在を媒体とする」は、問四の芭蕉の例でクローズアップされていた「それまでの生涯の蓄積結果としての身体」をまるっと「存在」としてみた感じです。また、「涵養」は私が引っ張り出してきているのですが、「勤行による自己変容・深化」をもう少し一般的な語としてぎゅっと言い換えてます。文字数的には私の解答例は余裕がありそうな気がしているので、もう少し紙幅を使って書いてもいい気がします。

読解後のつれづれ

全体として非常に面白がって読んでおりました。特に問三で、自身の身体もまた自然の中に位置する一現象だな〜と捉え、じゃあ自然のままに身体の中に問いを通せば、ボールの軌道と同じように答えが立ち現れるんじゃね?という発想にまでジャンプするのがなかなか爽快でした。我々にできることは、時間や空間、自他の区別といった、人間的で邪魔な記号的認識を排する努力をすること……という。

岡潔や松尾芭蕉ほどではないと思いますが、何かが「直観的にわかる」ということも、それに近いプロセスが瞬間的に発火しているのかもしれませんね。もし皆さんが、何らかの刺激を受けたり状況におかれたりした時に、「直感的にわかる」というような経験をしたことがあるのなら、おそらくですがそれは皆さんの生涯の積み重ねの結果として「導出」されたものなのかもしれません。

そういうのが多方面にわたることや、あるいは(岡や芭蕉のように)一つの方面に特化していくことは、それ即ち自己研究の進展であり、ある分野の思考を推し進めることになっていくのでしょう。

なんやら抽象的なまとめになってしまいましたが、今回はこの辺で。お疲れ様でした!

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