総評
全体的に随想的な筆致で、理系設問にしてはかなり難しい大問かと思いました。理系の方がこういう文多い気がしてきたな。逆に文系の人にもチャレンジしてみてほしい大問と言えます。
記述量としてはそれほど多くありませんが、問一からして私と他社解答が違う感じになっており、なかなかどう取るかが難しい設問だと感じます。理系の人で、国語で勝負する人でなければ、問二で少し点が取れれば十分なのかもしれません。
解答例と解説
問一
死者は生者に記憶され、意識中の記憶や追憶を通して生者の生を新しくすることによってこそ意義を持つと言えるから。
私が参照している旺文社の解答例とほぼ違う箇所を取っています。旺文社の解答例では傍線部の直前の「死者に対する最もよい冥福は彼らの生の記憶を常に美しく保存すること、時と共により一層美しく保存することにある」を解答の核として使っていますが、私はそうじゃないんじゃねって思います。皆さんどう思うか考えながらこの先読んでみてください。
そもそも、「忘却こそが死者の本当の死」みたいな話は時々マンガとかでも出てきますよね。人の記憶に残っていれば、その人は本当の意味で死んだのではないとか、生者の心の中で生き続けるとか、そういうの。今回の傍線部もそれと同じようなことを言っているとは思います。
ほいじゃあ、「忘却が死者の最大の敵ではないだろうか」というように筆者が言うのはなぜか、という問いに対する答えとして、①「死者に対する最もよい冥福は記憶に残し続けることだから」か、②「死者は生者の記憶に残ってこそ意義を持つから」では、どちらの方が良さそうか、という検討をしましょう。①が旺文社で、②が私です。もちろん私は②の方が良いんじゃねっていう立場です。笑
①は「最上の冥福」という、生者に立脚した(死者にとっての、記憶されることの)メリットを理由としています。「冥福」は生者が死者を追悼することによるものですし。一方で、②は「死者の意義」という、死者に立脚した(記憶されることの)メリットを理由としている感じです。記憶され(、生者に作用す)ることで、死者は生者に対して意義を持つ。
そのうえで、私は「忘却が死者の最大の敵ではないだろうか」とする場合、やや「死者」に視点がある説明の仕方のほうがいいんじゃないかな〜と思った感じです。「生者が冥福できないから忘却は死者の敵」よりも、「死者が意義を持てないから忘却は死者の敵」の方が、通りというか内容の凝縮度が高いのではないかという。
でも、①も②も、どちらも「生者が覚えておいてくれると死者にとって良いことがある」という抽象度では同じです。ですのでどちらも答えにはなり得るとも言えるのですが、二行という紙幅で最善の解答を求めるとすると、どちらに重点を置くかは考えないといけません。私は上述の理由により、②の方に重点を置いた方がより適当なのではないかと思って、こういう解答例にしてみた感じです。どうでしょう?
部分点
〈死者は生者に記憶され〉、〈意識中の記憶や追憶を通して生者の生を新しくする〉ことによってこそ〈意義を持つ〉と言えるから。
「死者は生者に記憶されることで意義を持つ」が核となり、どんな風に意義を持つかの少し具体的な説明が間に挟まっている形です。直接の記述は「死者が生者に対して意義を持つのは、生者の意識の内部において、彼の純粋の生を常に死の記憶によって新しくするように死者が作用している点にある」です。文構造が分かりにくいっすね。ざっくり言えば、生者は死者の「死の記憶」によって、自身の生に影響を受けることがあって、そういう形で死者は生者に対して意義を持てるよねってことです。亡くなった人のことを覚えているからこそ、その記憶を起点にして生者が自身の生を変容させる可能性もあるってことですね。
上述した箇所に含まれる「純粋の生」がどのようなものかは詳しく語られてはいませんが、おそらく本文中の「生の持つ真の悦び」と関わりがあるものと思います。生の終着点である死を知らなければ、生きているということを本当の意味で分かれていないということなんじゃないでしょうか。逆に言えば、死を知ることで生のことも本当に分かれるということでもあります。
最後に細かい表現のところですが、設問が「(1)のように言えるのはなぜか」ではなく「(1)のように筆者が言うのはなぜか」なので、「〜意義を持つと言えるから(筆者は(1)のように言う)」と答えています。「〜意義を持つから」ではないってことです。後者の方が、理由部分が一般的な記述になるので、「筆者が言うのはなぜか」という(筆者から見て)少し主観的な設問指示にややそぐわないのではないかと思ったため。多分点数には影響しませんので、どっちでもいいです……笑
問二
結核療養所には死がありふれており、患者たちは自らの死の予想の苦しみや不安から逃れられないため、他者の死の不安を真に慮る余裕はないということ。
比喩の説明問題と言えるんでしょうか。傍線部が含まれる段落中、傍線部より前の部分でどうにかするしかないんじゃないかと思います。傍線部内でどういうことが言われているのかを理解できれば、まぁなんとかなるのではないかと思います。
傍線部、「自らの問題の不安には眼をつぶり得ない」は「自らの死の不安から逃れられない」という意味で、これは療養所において「死」があまりにもありふれたものであるからです。あんまり身の回りに死がなければ、「自らの死」にも意識を向けることはない気がしますが、死が身近な療養所においては、死に触れる数も多く、必然的に自らの死にも意識が向き、逃れられないということですね。
傍線部後半の「他者の問題に不安を見ようとしない」は、「他者の死に、自らが不安を抱くことができない」というような意味合いです。健康に生きているような状況であれば、他者が死に瀕している時など「あの人は大丈夫だろうか、不安だな」と思うことができますが、それはあくまで自分が死にそうじゃないからです。自分に余裕があるからです。死が満ち溢れる療養所で、自らの死への意識から逃れられないとき、人は他者の死に不安を感じている場合ではないというのが傍線部全体の大意です。
部分点
〈結核療養所には死がありふれており〉、〈患者たちは自らの死の予想の苦しみや不安から逃れられない〉ため、〈他者の死の不安を真に慮る余裕はない〉ということ。
「他者の死の不安を真に慮る余裕はない」に関してはやや要約しています。本文では「他者の死に対して真に悲しむことをなし得ない」、「他者の死を厳粛に考えるに堪えない」と表現されています。「余裕がない」とした方がわかりやすいんじゃないかな〜と思ったくらいなので、同様な内容であれば大丈夫かと思います。
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問三
筆者が小山わか子の歌集から、小山の孤独な病床での精神生活とその生の美しさを受け取り、そこに普遍的な生の姿をみたように、他者を自己の中に受け取ることは、自身の生を富ませることになるということ。
むずめです。そもそも、傍線部自体を別途説明してくれているような箇所があんまりありません。傍線部は傍線部として理解して、それを他の記述や小山わか子のエピソードから修飾していくというイメージの解答になります。
「他者をも自己のうちに持つことは自己を希薄ならしめることではない」は、「他者を自己の中に取り込むことは自分を薄めることではない」なので、ここでは「他者を自己の中に取り込むことは、自分を富ませることになる」として理解しています。で、ここでの「他者」は筆者にとっての小山わか子です。筆者は小山わか子の歌集を読み、小山わか子という他者(死者)を自己の中に取り込むことで、自己に変化があったと言いたいんじゃないかな〜て思います。
筆者は小山わか子の歌集を通して、「孤独な終焉に至るまでのその病床の生活」を受け取り、「そこに多くの苦しみと不安とがあるから、かえって生の普遍的な姿を簡明に示している」ため、「類のなく美しい」と言える小山わか子の生に「感動した」のだと捉えられます。これによって生者である筆者は死者から影響を受けており、それこそが死者の意義であり最上の冥福であるという問一に繋がりますね。
部分点
〈筆者が小山わか子の歌集から〉、〈小山の孤独な病床での精神生活とその生の美しさを受け取り〉、〈そこに普遍的な生の姿をみた〉ように、〈他者を自己の中に受け取ることは、自身の生を富ませることになる〉ということ。
前半が「小山わか子の歌集にも触れながら」という設問指示を意識している箇所です。「他者を自己の中に受け取ることは、自身の生を富ませることになる」んだけど、今回の小山わか子の歌集が、筆者にとってのどのようにその具体例となっているかという説明になっています。
上述の通り、「他者を自己の中に受け取ることは、自身の生を富ませることになる」に関しては、傍線部以外であまり説明されているわけではありません。小山わか子の歌集のエピソードも踏まえて、自分の言葉で解釈し直して言い換えているという感じになります。
どうでもいいんですが、旺文社の解答例では「小山わか子さん」とさん付けになっていました。なぜ……?笑
読解後のつれづれ
なんやかんやで一つの文章部分としてはまとまりのある感じになっていました。療養所は死がありふれているので、自分の死への意識から逃れられず、それが結実したものが小山わか子の歌集だったと。筆者はだからこそ、その歌集の中に「生の普遍的な姿」を見出し、感動し、影響を受けたんだけど、そんな風に死者から影響を受けて「(生者である)自己の生」が更新されることに「死者の意義」があるし、覚えておくことが死者への最上の冥福になるという感じにまとまりますね。
私もまだ、普段から自分の死に意識を向けることは多くありません(それはそう)。でも文章を読むというのは、そんな人々を含む他者の言葉を受け取ることを通して、死への意識を擬似的に体験することでもあります。それはあくまで擬似的なんだけど、時にそこに身に迫るものを受け取るのもまた然りです。それもまた国語の良いところでもあると個人的には思っています。
皆さんにも、己の生を更新する言葉との出会いがありますよう……とまあ、今回もお疲れ様でした!




