AI時代に国語を学ぶ意味って……?

この記事の文章はAIが書いていません。ALL 人間 WRITINGです!

こんばんは。最近は仕事をしたりAIと戯れたりしていて、久々の記事執筆となっております。
解説記事もめっきり書けておりませんが、別に失踪したわけではなくサイト運営も細々と続けております。笑

さて今回は久々のコラムとして、高校生の皆さんや教育について考えたりしている皆さんに対して、掲題について私の考えをいったんまとめておこうと思います。

この記事の要旨
AI時代において、人間が国語を学ぶ意義は相対的に増大するのではないかと私は思っています。AIは使いこなしていくことで人間の生活を豊かにしてくれる可能性もあるものだと思いますが、中庸を取りがちであるAIに対して、言葉で価値創造の主導権を握るためには、国語による言語能力と自分の価値観の成長が大事になってくるんじゃないか……という感じです。

目次

AI、使ってますか?

さて、皆さんはAIを日常的に使っていますでしょうか?(ここではChatGPTやGeminiといった言語生成AIを主眼に置きます)
私も今となってはAIヘビーユーザーとなってしまい、ClaudeCodeやCodexといったいわゆるコーディングAIをはじめとして、複数のAIに月2万円くらいお金を払って使い込んでいます。

AIは、人間が考えたり手を動かしたりしてやってきた(主にPCやスマホ上での)作業、つまり文章を書くこと、ものを調べること、プログラミングをすることなどを、人間にはできないスピードでやってのけますし、その品質も日々高まってきています。

世界がここまで来てしまったからには、私たちは恐らくもうAIがいない世界に戻ることはできないと思います。今となってスマホがない世界に戻ることがなさそうであるのと同じです。

そんな世界で、私たちはAIとなんとかうまいことやっていった方がいいですよね、たぶん。私もAIくんから価値を引き出して、私がやってほしいことをうまいことやってほしいな~と試行錯誤しています。そうやって毎日AIと話したり作業をしてもらったりしている間に、やっぱり人間、そして国語も捨てたもんじゃねえなという気持ちにもなりました。今回はそういう文脈のコラムです。

AIは「正解があるようでない」タスクが上手い

そもそもAIは「ロボット」のような外見が当て込められることも多いように、「機械寄り」のようなイメージを持たれている方もいらっしゃると思います(以下はAIのイメージをAIに生成してもらった図)。

機械っぽくないやつもいますね笑 主に上半分のような「機械寄り」なイメージから、AIは「正確な作業が上手い」という印象を持たれている方もいらっしゃるかもしれませんが、実はここに少しの誤解の種があります。

例えば四則演算などの「正解が完全に一位に定まる」系のタスクについては、AIが直接行わない方が正確で安心できます。というのも、根本的にAIは「正確な」ことを言うのではなく「(自分が知っている、またはその場で調べた範囲で)妥当性が高(くそれらし)いこと」を言う仕組みであるからです。

プログラミングは「正解が完全に一位に定まる」系のタスクじゃないの?とも思いましたが、おそらく「ゴールは1つに定まるけど」そこにたどり着くまでの道のり(実際のコード実装)はさまざまな書き方がある、という点で「完全に一位に定まる」というわけでもないんじゃないかと思っています。

というわけで、なんやら逆説的ですが、AIは「電卓っぽいこと」よりも「人間っぽいこと」の方が得意というのが私の考えですし、AIをある程度使い込んでいる人の共通認識なんじゃないかと思います。

ただ、最近のAIはかなり賢く、例えば正確な四則演算をしなければならないシーンでは「その場で必要な計算スクリプト」を勝手にプログラミングして実行し、正確な計算結果を取得しますので、あくまで「AIの脳みそで直接考える範囲内では」というお話です。

AI時代にあったらうれしい言語能力

それでは国語に話を戻しましょう。最近のAIはかなり自然に日本語を操りますので、日本語で指示を行い、AIの言っていることを聞き、返事をして目的を達成させるという営みは非常に会話的です。言うなれば、即興の言語読解を延々と行っていくことに近いですし、まさに人間のような「他者」と協働的なコミュニケーションを行って価値創造を行っていくことでもあります。

もはや相手が人間であっても、AIであっても、そこに在るのはコミュニケーションになってきました。「相手が何を知っていて何をわかっていない状態か」というのを文脈から推測し、必要な情報を提供したり、自分の言葉で気持ちを伝えたりする

それって結構国語的なプロセスだよな~って最近は思ったりします。テキストを読んで、考えて、自分の言葉で説明する。その還元先が「読解問題」とかになっているのか、もしくはAIや人間といった現実世界になっているのかっていう違いです。まあこれはAIが出てくる前からそうですね。そういう意味で現実にも(迂遠的にも)還元されていく国語活動というのが、なんとも良いものなのではないかと思います。

AIをうまく使うために国語を勉強する必要はないと思いますが、国語でやっているプロセスというのは意外と現実還元的なんだな~と思っていただけると幸いです。

とはいえ、AIはベースラインとして人間の言うことを全て素直に受け止めるようにチューニングされているので、AIとの会話がそのまま人間との対話に相似的ではないとも思います。ただ、AIも時々目の付け所が面白かったりはするので、それも使い方なのかな~とは思いますが。

国語によって育つ「自分」

また、国語によって育つものは言語能力だけではないと思っています。

どのような文章種であっても、そこに含まれる「自分との差異」に触れ、自分がどのようにそれを受け止めるかを内省するプロセスは、現在の国語の授業にも多く含まれています。そのプロセスを通して(外界と自分をぶつけることで)「自分ってこう思うんだな~」という経験を得て、そこから自分がだんだんと形作られていく、私はそういうのが国語教育の一つの価値だと思ったりしているわけです。

冒頭でも述べました通り、AIは中庸を積極的に取りに行く仕組みです。ただ、中庸だけ取っていてもツマランのも確かです。私はAIでなんかオモロイことができんかな~と思って、結構な時間(とある程度のお金……笑)を費やしてAIといろいろな試みを行いましたが、結構頑張ってもいかんせん面白くならない。これはAIの中に、(人間にとっての)面白さの源泉となるような「偏り」があんまりないからなんじゃないかなと思っています。

「偏り」というのは、例えば皆さんそれぞれが持つ、あらゆる個人的な「これは好き」「これはキライ」です。そして人間はすごいので、自発的な行動によってその偏りを育てていくことができます。そのような「偏り」により生まれる「他者との差異」から、なんやかんや面白いと感じられることが起こるんじゃないかなと。

国語は(テキストを媒体として疑似的な経験=「読むこと」を行うという点で)圧縮的な経験とはなっていますが、その分実体験しなくても経験を得られるというところもあります。それを受けて「自分」≒「自分の偏り」を作っていくことは、AI時代において一層大事になってきているんじゃないかと思ったりもするわけです。

「AIに聞けば分かる」だけでは、自分をしっかり作れないかもしれない(それはちょっと嫌じゃないっすか?)

最近、「チャッピーに聞いてみたら……」「Geminiに聞こう~」みたいな会話をよく耳にするようになりました。私も調べものにかなりAIを使うので、「聞いてみる」こと自体に忌避感があるわけではありません。また、「AIが言うことは不正確なこともあるので……」という一辺倒な気を付けてねトークをしたいわけでもありません(そんなんAIネイティブの皆さんは勝手に自衛してください笑)。

どちらかというと今回言いたかったのは、AIの「中庸」に負けない「軸としての自分」を持てているか?育てられているか?ということです。あと、国語はそれに役立つと思いますし、そのうえでAIとのコミュニケーションをより効果的に行う言語能力も育てられるかもしれんということでもあります。

AIは基本的に人間よりも賢いことも多くなってきました。うまいこと言いくるめられてしまう(それが必ずしも悪いことでもない)場合もあるかと思います。
とはいえ、AIを生み出したのも人間ですし、AIを使うのも人間です。人間の偏りと自発性が、社会と文化を育ててきました。その点では「中庸」に人類を強力に流してしまうAIは、人類を衰退の方向性に進めるものでもあるかもしれませんが……。

んなこと言っても大きな流れはもう止まらないでしょうし、そうなったら各個人がどう判断するかです。
私としては、少なくともAIに自分の偏りを矯正されてしまうことは避けたいなと思っていますし、それを国語教育は少しでも食い止める力となるんじゃないかとも思っています。国語で読む文章は「偏り」の宝庫ですから。

果たして人類の明日はどっちだ……。まあそんなAI時代、ぼちぼちがんばっていきましょう!

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