京都大学 国語2023[一]解答例と解説

目次

総評

芸術の変遷とそれに対する筆者の見解が、時々具体例も交えつつ展開されていくという感じの本文でした。全体的に難しく、何を言っているのかが何度も読み返さないと理解し切れないというくらいの抽象度でした。ところどころ、やや説明が足りていないとも言える感じのところもあり、前後の具体例からがんばって理解を広げていく必要があります。

問一がやや難しく、文系設問の問四もとても難解です。本文全体としても難しめなので、それ以外の設問である程度得点しておき、この大問以外でもうちょっと取るという解答戦略が必要になったかもしれません。

解答例と解説

問一

演劇は、舞台上で為される物事を観客が見るというものではなく、主体としての観客が、劇場全体の中で能動的に俳優に精神的働きかけをすることで成立する芸術であるということ。

難しいな〜と思いました。どこまで取るかが難しい。私が参考にしている旺文社の解答例では、傍線部(2)が含まれるピーター・パンの具体例に参考として言及はしつつも、それより前の内容で概ね記述していました。でもな〜、その後の「この一事で明瞭ですが」から始まる段落から、(傍線部(3)の前の部分である)「演劇はディオニュソス祭儀から生まれたものであり、それ以外のものから生まれたのではなかったのです」までは「演劇」に含まれるので、割とガッツリ関わってくるんじゃないかと思ったわけです。順を追って説明します。

解答の核となるのは傍線部(1)に続く箇所「舞台でなにごとかが為されながら、観客席がそれを見ているだけでは(中略)たんなるタブローになってしまう」、「ドラマが真に《為されるもの》であるゆえんは、それを為す主体が観客であるからであり、為される場所が舞台ではなくて劇場であるということにほかならない」あたりです。ここには「為す主体が観客である」「為される場所が舞台ではなく劇場である」という二つの要素が含まれています。

後者の「為される場所が舞台ではなく劇場である」の方がわかりやすくて、「劇場」とは「平土間」、つまり観客席を含む「劇場全体」ということです。ドラマとしての演劇は、プロセニアム(舞台の額縁)の向こうで何かが為されるものではなく、観客席を含む劇場全体で何かが為されるものだということです。

んで、劇場全体で何を為すねんって話ですね。とりあえず先述の二つの要素の前者から、劇場全体で「為す」主体が「観客」であることはわかります。じゃあ主体としての観客は何を為すの? ディオニュソス祭儀から分かる通り、「問う」ことですね!(なるほどわからん。笑) ここでいう「問う」が具体的にどのような営みなのかは、正直あまり分かりません。ただ、「問うのいうのは、とりもなおさず精神の運動開始にほかならなかった」とはあります。「コール」があって初めて「レスポンス」があり、そこから精神的な運動が始まるってことですね。

ピーター・パンの例にも一端が表れているように、本来ドラマとしての演劇は「コール&レスポンス」であると表現できます。そして俳優は「答える(レスポンスする)ひと」ですから、「コール」は観客の役割だったわけです。「コール」がなければ「レスポンス」は起こりませんから、「コール」をする観客の方が主体である、というのもわかってきますね。

ここまでをまとめると、ドラマが《為されるもの》であるということは、演劇が(タブロー的な)舞台に制限されるのではなく、劇場全体の中で観客が「コール」する(=為す)ことで成り立つ営為である……ということかと思います。ただ参考までに、ピーター・パンの例は俳優の方が「コール」してるように感じますので、その点ではギリシア語の本義的な「俳優(答えるひと)」からは外れた俳優像であると言えるかと。

部分点

演劇は、〈舞台上で為される物事を観客が見るというものではなく、〉〈主体としての観客〉が、〈劇場全体の中で〉〈能動的に俳優に精神的働きかけをすることで成立する〉芸術であるということ。

部分点一つ目の「〜というものではなく」は否定の限定なので必須ではないかと思います。「舞台においてなにごとかが為されるというだけでない」よりは「観客がそれを見ているだけではない」とした方が具体性がやや上がってわかりよいです。

「主体としての観客」「劇場全体の中で」は必ず入れておきたいです。「観客が主体である」「観客席を含む劇場で」などでも大丈夫かと。

で、「どうして観客が主体と言えるの?」「どうして劇場全体で為されると言えるの?」に答えるのが「観客が能動的に(受動的な存在ではなく)、俳優に対して精神の運動開始を働きかけていた」という内容です。観客と俳優の「コール&レスポンス」が発生するには、舞台と観客席が区切られていてはいけません(つまり、「為される場所」は「劇場全体」であるということ)。この内容を入れられれば、説明不足の解答とは言われないのではないでしょうか(そこまで本番にできるわけあるかい!とは思いますが……笑)。

問二

映画は後の筋書きが決まっていることが観客にも分かりきっているため、生身の観衆の反応を受けて筋書きが進むという演劇の手法は、無意味で空虚なものとして受け取られるから。

比較的難しくないのかもしれません。傍線部内の「この呼吸」を上手い具合の具体度で説明し、「映画では不可能」な理由をある程度一般的な記述で説明できればよさそうです。

「この呼吸」の中身は本文で言う「ピーター・パン」の例ですが、これをもう少し抽象化してやる必要はありそうです。私は「生身の観衆の反応を受けて筋書きが進むという演劇の手法」とまとめています。そしてそれが「映画では不可能」な理由は、「もし映画だったら、たとえ子供たちが手をたたかなくとも、あとにくりひろげられる筋書はすでにフィルムにおさめられ」ているからです。ここまで取れていれば十分かと思いますが、私の解答例ではもう一段階細分化しており、先ほどの箇所に続く「子供はともかく、大人だったらばかばかしてくて手をたたく気にもなりますまい」も理由として入れています。この点は部分点で解説します。

部分点

〈映画は後の筋書きが決まっている〉ことが〈観客にも分かりきっている〉ため、〈生身の観衆の反応を受けて筋書きが進む〉という演劇の手法は、〈無意味で空虚なものとして受け取られる〉から。

上述したように、「映画は筋書きが決まっている」「演劇は生身の観客の反応を受けて筋書きを進められる」という対比ができていれば最低限は大丈夫です。でも、「この呼吸は映画では不可能」なのは、「演劇がこうであるのに対して、映画はこうであるから(この呼吸は不可能)」じゃなくて、「演劇のこの手法を映画でやってしまうとしらけるから(この呼吸は不可能)」の方が良いかな〜と考えました。そのため、本文の「子供はともかく、大人だったらばかばかしてくて手をたたく気にもなりますまい」という記述から、「無意味で空虚なものとして受け取られるから」とまとめています。また、ここで理由を「映画と演劇の性質の違い」ではなく「観客がしらけるから」に移しているので、前半部も「映画は後の筋書きが決まっていることが観客にも分かりきっている」として、「観客」の方に移しています。まぁ〜「観客にも分かりきっている」の部分は記述を丁寧にするくらいなので、正直必須ではないんじゃないかと思います。

問三

近代劇に日常生活のものまねを演じ見る快楽しか保たれていないように、作品が鑑賞者に主体的な精神の自由を許さないのであれば、人々は主体性を求めて作品を造る側に魅力を感じるようになるから。

こちらも比較的難しくない気がします。直接的な理由は傍線部の後の当該段落中の記述ですが、傍線部より前の箇所も使って考えましょう。

本来、演劇はディオニュソス祭儀のように「問う」観客と「答える」俳優で成り立っていました。ここでは、「問う」人として観客にも主体性があります。しかし近代劇は、そのような精神の運動の活気は失われ、「ものまねの快感」がわずかに残っているまでです。ここでいう「ものまね」は「日常生活のものまね」であり、演者の演技が「本当のようである」ことに価値を置くものです。観客はそれを見て感心するくらいなので、これでは観客の主体性はほぼないようなものです。当該段落最終文にあるように、「主体性とは生きる自覚のことであり、だれしもそれを欲している」ため、鑑賞という行為に主体性が欠けているのであれば、まだ主体性っぽい感じがする演じる方に回ることに人々が魅力を感じるのも無理はない、という話ですね。

部分点

〈近代劇に日常生活のものまねを演じ見る快楽しか保たれていない〉ように、〈作品が鑑賞者に主体的な精神の自由を許さない〉のであれば、〈人々は主体性を求めて〉〈作品を造る側に魅力を感じるようになる〉から。

一つ目の部分点は傍線部の前の近代劇の例から、「作品が鑑賞者に主体的な精神の自由を許さない」ということの具体性を少し上げています。なくても耐えかもしれませんが、あった方がいいとは思います。それ以降は上述の通りです。

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問四

芸術作品に自己を筆頭とする人間の投影を見出し、その堆積が個性的な自己の厚みであるかのように錯覚しながら集積してきた成果物。

文系のみ解答する設問です。難しいというかなんというか、何らかの解答案を作るだけでも苦労しそうな設問です。

前提として、良いものとして称揚されることの方が多い「教養」ですが、ここではそのようにニュートラルに良い意味として言われているのではなく、人間の自我主導的な活動の結果を一言で「教養」と筆者は言っています。つまり、ここで言う「教養」は一般的な意味ではなく、筆者が批判するとまでは行かないものの、やや嘆いている寄りの近代芸術の受容法によって形成されたものであるという点は事前に押さえておきたいです。あんまりものとして言われているわけではないってことです。

そのうえで、「教養」とは「自我の堆積」なのですから、「自我」とは何かを説明すればよい感じです。少し前に戻って、「すこしでも自分らしきものを見いだし、それをふところにしまって帰ろうと狙っている」「なにかを自分のものにしようと構える」が「自我」っぽい記述ですが、字数的にもこの点をもう少し密度高くして一般的な記述にするとよいかと思います。

記述の解説としては概ね十分かと思いますが、もう少しこの心性を噛み砕いておきましょう。近代芸術の鑑賞法として、「作品から自己を富ませる何らかを得る」が目的化しているきらいがある、という点を筆者は述べています。例えば絵画や演劇を見る(観る)とき、「見るからには何か気づきを得なければ」とちょっと思いませんか? それです。「全然なんもわからんかった」だけではもったいないので、見る人は芸術から、自己を富ませる何かを得たいと思います。全くもって自己に関係ないことでは自己を富ませることはできないので、期待する「学びや気づき」は「自己が共感できたり、自己にわずかにでも関わること」なのです(それを筆者は「自己の似顔」と言っています)。芸術を鑑賞して、自己に関わることを得て、自己を富ませるという目的意識が根底にあるのが近代芸術の受容法で、その「学びや気づき」の集積がここで言う「教養」です。近代芸術の目的意識自体を筆者はあんまり是としていない雰囲気がしますので、ここで言う「教養」もそんなによい雰囲気を纏っていません。

部分点

〈芸術作品に自己を筆頭とする人間の投影を見出し〉、〈その堆積が個性的な自己の厚みであるかのように錯覚しながら〉〈集積してきた成果物〉。

部分点二つ目の「その堆積が個性的な自己の厚みであるかのように錯覚しながら」は、「自分を富ませるために」ということなのですが、かなり私の書き方をしているので、いろいろな書き方があるかと思います。「錯覚」という言葉を使い、ここで言う「教養」に対する筆者の「ちょっと批判している書き方」を表せるようにしています。

問五

近代芸術において、創作者・演者と鑑賞者は分離され、鑑賞者に主体的な精神の自由を許さない作品が増えたことで、創作者の主体性が助長された。その結果、創作者は自我の実現ばかりを、鑑賞者は自我の投影を受け取ることばかりを求めるようになり、芸術は他者との交感ではなく自我の充実のために利用されるものになったということ。

「本文全体を踏まえて」なので、核となる記述を作ってから本文内容を適宜盛り込んでいきましょう。

核となる記述としては、傍線部より後の箇所から、傍線部の「孤独におちいっている」の説明となるようにまとめていきます。近現代において芸術は「自我を富ましめようとし、さらに芸術がそのために利用される」というものになっており、「孤独からのがれる機縁とはならず」、非常に内向的なものになっていると言えます。どうしてそうなったのかを、本文の要所から取ってきます。

もともと、ディオニュソス祭儀にあったように、演劇も観衆の主体性が高い営みでした。しかし、観客と俳優が分離されたことで、近代劇において観衆は受容するだけの人になりました。表現者・創作者と鑑賞者は分離され、芸術は交感性を薄れさせ、「自己表現を他者に見させる」「何かを見て自己を富ませる」ものとなり、「自我の充実」に利用される、極めて(表現者・鑑賞者ともに)「個々」に寄ったものになってしまった、という感じです。これを筆者は「孤独におちいっている」としています。

部分点

近代芸術において、〈創作者・演者と鑑賞者は分離され、鑑賞者に主体的な精神の自由を許さない作品が増えた〉ことで、〈創作者の主体性が助長された〉。その結果、〈創作者は自我の実現ばかりを、鑑賞者は自我の投影を受け取ることばかりを求めるようになり〉、〈芸術は他者との交感ではなく自我の充実のために利用されるものになった〉ということ。

先ほどの解説は「核となる記述→そこに至る経緯」という順番で解説しましたが、記述としては「そこに至る経緯→書くになる記述」の順番の方がそりゃわかりやすいのでそうなっています。二文に分けるか一文で続けるかはどっちでもいいと思います。

やや蛇足ですが、ちいちゃいこだわりを書いておくと、「助長」はニュートラルな使い方もできますが、本来「あんまり良くない形で促進すること」という意味合いなので、この語がまとうそんな感じの雰囲気も生かしているつもりです。笑

読解後のつれづれ

芸術に関してはあんまり専門ではないのですが、今回述べられていた「自分を富ませるために芸術が利用されている」という点は割と正当なものとして捉えていたので、本義的にそうじゃないという見方もできるのだなと思い直しました。

でも個人的に今となっては(筆者にはちょっと申し訳ないですが笑)、芸術においてもそれ以外においても、他者との交感ってエネルギーを使うし、自分はもともと根底が内向的なので、自己を富ませるってので良いんじゃないかなとも思っちゃいますね。私は「孤独」をそれほど悪いものだと思ってないから? いや別に人と関わることが嫌いなわけではないのですが、芸術において自己意識の矢印が自己に向くことは、いっそポジティブにも捉えられるんじゃねって感じです。他者に迷惑かけない方がいいとは思いますが……。

なんか変な話になっちゃいましたね。いろんな捉え方があるってことで。今回もお疲れ様でした!

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