京都大学 2024[一]解答例と解説

目次

総評

難しいな〜!!と思いました。文章自体は比較的読みやすく、するすると読めてしまうのにも関わらず、筆者自身もあまりしっかり考えて書いているのではないんじゃないかという(感じたことをそのまま言葉にしているような)箇所が傍線部になっています。筆者が書いている言葉のつぎはぎでは、良い解答には到底ならなさそうです。

理系の皆さんにとっては、問一・問二である程度取って、問五で部分点を取れていれば十分なのではないかと思えるくらい、問三・(文系設問の)問四と、問五の各部分点は難しいと思います。でも、(特に文系の人は絶対に)解説を読んだり自分で考えたり、赤本の解答例と私の解答例を比べたりして、京大国語では「こういうこと」が求められてるんだなぁ〜と理解するくらいまでは行きましょう。それがガチで文章を読むということです。本番の自信はその経験からしか出てきませんので。

解答例と解説

問一

母語ではない言語を多く学ぶ中で、母語による思考の枠組みが薄れ、新しい言語による思考様式を取り組むことで自身の根本が更新される恍惚感のある状態。

傍線部(1)の前の段落内で、筆者の言語学習の経験が具体的に語られていますので、その内容を一般的な記述にまとめ直していきます。「基礎だろうと応用だろうと歌だろうと節操なくロシア語という言語に取り組んで数年が経ったころ」「恍惚とした感覚に襲われてぼうっとなった」「自分自身という殻から解放されて楽になるような」「その空白にはやく新しい言葉を流し入れたくて」「『私』という存在がもう一度生まれていく」といった点が要素となります。

ただ、「言語を学ぶ」ことがなぜそのような体験をもたらすのかと言うと、傍線部内および直前にある通り、「言語というものが思考の根本にあるからこそ」「語学学習のある段階に訪れる脳の変化」が起こるためだと考えられます。「言語なき思考は可能か(おそらく難しい)」という問いが歴史的に考えられてきたほどに、思考と言語は深く結びついています。極端に言えば、我々は、言葉(多くの場合は母語)にできないことは認識できない(もしくは扱えない)し、認識できないものは考えられません。逆に言えば、新しい言語を学ぶということは、「認識」や「思考」を新しく自分の中に取り入れることでもあります。それを筆者は「脳の変化」と表現しています。

(あなたが日本語母語話者であることを前提としますと)我々はもともと、母語(である日本語)に依拠した思考や認識を行っています。筆者はロシア語を学ぶことで、ロシア語の思考や認識の様式を取り込み、それによって日本語の思考・認識の様式を相対化できたのではないかと思います。それにより、既にある程度固まってしまっていた日本語の思考様式から解放され、自分の中に新しい様式が作られていく、そんな感覚を「『私』という存在がもう一度生まれていく」と表現しているのではないかと思います。

部分点

〈母語ではない言語を多く学ぶ中で〉、〈母語による思考の枠組みが薄れ〉、〈新しい言語による思考様式を取り組む〉ことで〈自身の根本が更新される〉〈恍惚感のある〉状態。

上述の説明では「認識」「様式」といった言葉を使いましたが、本文における「思考」という言葉と「自分自身の殻」という比喩表現が直接的には相当します。ただ、「自分自身の殻」は比喩的すぎるので、「思考の枠組み」と言い換えています。

「新しい言語による思考様式を取り込む」は「その空白にはやく新しい言葉を流し入れたくて」から取っています。新しい言葉を学ぶとともに、薄れた思考様式に、新しい言語による思考様式を取り入れるという感じです。また、「自身の根本が更新される」の部分点は「『私』という存在がもう一度生まれていく」を言い換えています。最後の「恍惚感」は別の表現でも良いと思いますが、傍線部に「幸福状態」という言葉が使われているので、この状態全体が「良い気分である」ことを表すのに、「恍惚」がもっとも使いやすいかと思いました。

問二

自身の将来に関して、一般的でなくても本気を出せる道を希求し、あえて自分を逃げ出せなくする環境を求めてもいたという心情。

傍線部が含まれる段落全体をまとめ直せばいい感じです。この大問の中では比較的取り組みやすい設問です。まぁ記述も短めですし。

いわゆる「背水の陣」もありなんじゃないかと思っていたということですね。とはいえ、「絶対に背水の陣だ!覚悟決めないといけない!」というほどではなく、「探してもいた」なので、その意気込みのほどほどさも残した記述にした方が良いかと思います。

留意するとすれば、傍線部(2)に続く、筆者の曽祖父のエピソードは含めた方がいいかな〜という点くらいです。私の解答例の中では「一般的でなくても」というところにぎゅっと入っています。

部分点

〈自身の将来に関して〉、〈一般的でなくても〉〈本気を出せる道を希求し〉、〈あえて自分を逃げ出せなくする環境を求めてもいた〉という心情。

「自身の将来に関して」は解答の完結性を意識して入れています。「解答の完結性」は私がよく意識している観点ですが、「問いに対する答えとして、その解答だけを読んでも(本文を読んでいなくても)文として通じる」というような意味合いです。

問二の設問は「筆者の心情を説明せよ」と聞かれているので、「筆者の心情である」ことは必ずしも明示的に説明しなくてもいいと思いますが、「将来に関して」という記述がないと、筆者の心情説明として、これ以降の解答の狙いが定まっていない(限定が緩すぎる)ような印象となります。まぁ一度、問いに対する答えとして、「自身の将来に関して」を飛ばして読んでみてください。

「一般的でなくても」「本気を出せる道を希求し」などは、記述の密度を上げるために独自に言い換えています。二行なのですっきりまとめたいですものね。語彙力があれば「自分の言いたいことをもうちょっと短い文字数で言えないか」が叶えられる可能性が高まります。

問三

筆者にとって新しい言語を学ぶことは魅力的な営為であり、自身の思考の様式を更新したり、自身が自明と思っていた世界に新しい別の認識を手に入れ、自身を前進させることだということ。

オイオイオイ傍線部(3)〜(5)近すぎん?と思いませんでした? 私は思いました。笑

問三は問一の内容と被る部分もある気がします。ポイントとしては三つくらいで、新しい言語を学ぶことが「魅惑の行為」であること、「見知った世界に新しい名前がついていく」という比喩表現、そして傍線部自体の「新たに歩きはじめる」という比喩表現です。

「魅惑の行為」と「新しい名前がついていく」は、問一と共通する部分があります。新しい言語を学ぶことは、自分の母語とは異なる思考や認識の様式を取り込むことでもありました。筆者にとって、それは時に恍惚感の体験ももたらす、魅力的な営みであると言えます。

さらに、そのようにして思考や認識を更新すること(言語を学ぶという魅惑の行為)を前に、「人は新たに歩きはじめる」とあります。そのため、「言語を学ぶこと」自体が「魅力的である」ことを明示し、歩き出すモチベーションをそそるものであるという書き方をしておいた方が良いのではないかと思いました。魅力的なものを前にすれば歩き始められますものね。

最後に、こちらも問一と被る部分もありますが、「歩きはじめる」という比喩表現自体の説明として、(言語を学ぶことを通して)自身(の思考や認識)を更新することができるという点を具体化しています。

部分点

筆者にとって〈新しい言語を学ぶことは魅力的な営為であり〉、〈自身の思考の様式を更新したり〉、〈自身が自明と思っていた世界に新しい別の認識を手に入れ〉、〈自身を前進させることだ〉ということ。

内容に関しては大体説明し終わっている気がしたので、また「解答の完結性」についてちょっとだけ付記しておきます。笑

問二の解答例では特段含めていなかった「筆者」という語を、今回は含めています。それはなんでかって言うと、問二は「筆者の心情を説明せよ」と言われているのに対して、問三は「どういうことか、説明せよ」と言われているからです。問二は「筆者の心情を説明して」って聞いてるんだから、聞いてくる相手(作問者?採点官?)は「答えは筆者(の心情)に関することだな」って分かってるはずですよね。だからわざわざ「筆者の」って言わなくても、ある程度完結性は保たれてる(不足はない)と思います(別に言っても間違いではない)。一方で、今回の問三は、「どういうことか」のみで聞かれているので、「この傍線部は筆者が感じてる・考えてることで〜」って言っておいた方が、我々が説明する相手(採点官?)に対しては限定性が加わってわかり良い可能性があります。

とまぁこんだけ長々と言ってきましたが、部分点は付けてません。笑 でもね、相手がどう聞いてきてるかによって、相手の保持している情報量を推察して、それに応じてわかりやすいように答える内容を調整するのってすごい大事だと思うんですな。国語の問題然り、コミュニケーション然り。社会人になったらこれ絶対できた方がいいですよ。まじまじ。

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問四

筆者は、『祈り』の歌に言語そのものへの希求を見出している。その希求とは、言葉と意味の対応が一筋縄にいかない点にも面白さを感じ、やはり言語を学び、言語を通して他者を理解したいというものである。

さてさて、本大問で一番やべ〜文系設問のお出ましです。「この歌をどのように考えているのか」という超ふんわりした聞き方で、「この歌をどう解釈しているのか」ではない点に注意です。「どう解釈しているのか」なら、筆者の視点からして『祈り』がどのように読めるのかということになりますが、「どのように考えているのか」なので、『祈り』という歌に関係すれば、歌の中身についてでなくても、付随する要素でもOKということになり、実際、その方向性だと思います。なんでかって言うと、(さまざまな解釈の可能性については具体的に触れつつも)筆者自身の詩の解釈はあんまり述べられていませんし、それらの解釈とはまた別の層にある要素として、この詩には言語への希求のようなものがある」って言っているので。

ほいじゃあその「希求」ってなんやねんって話に移ります。その際に、設問指示として「本文全体を踏まえて」とある点にも留意してください。まず「希求」に関わる内容(「希求」の中身ではなく、あくまで「関わる内容」)として、「この詩を読もうとすると、ひとつひとつの単語の辞書的な意味を疑わざるをえなくなり、賢さや幸せという、普段は自明のものと認識している言葉の意味を考え直すことになる。そうして緩やかにつながる言葉同士の関連性に目を凝らし、意味の核心に迫ろうとするが、核心は近づいたかと思えばまた遠ざかる。『言葉』と『意味』はひとつにはならない、でもだからこそ面白い」とあります。この辺を荒くまとめると、「『祈り』の歌をきっかけに、言葉について改めて考えると、わかるようでわからんくておもろい」となります。しかし、そもそも「希求」とは「のぞみ、もとめる」ことなので、「おもろい」ではややズレていて、「〜したい」みたいな感じでまとめる必要があります。

そこで本文全体に目を移します。筆者と『祈り』の歌の出会いは、筆者が初学者の頃にラジオのロシア語講座で聞いたというものでしたから、『祈り』の歌にあるその一見の理解不可能性をかえって魅力的に感じ、筆者を語学に惹きつけたことを踏まえます。その後もロシア語を学び続け、(後々は「話す」もできるようになったけど)「読む」「聞く」というところに心の重点を置いて、「ひたすら黙って友人たちの会話を聞いているだけで幸せな気分になってしまう」というような傾きを持った経験をしてきたことも合わせて考えます。つまり、『祈り』は筆者の語学の起点あたりに位置しており、また筆者は語学を通して「(本や会話といった)他者の受容・理解」に喜びを感じていたということです。

『祈り』の歌詞は、一見よくわからないものでした。それがかえって筆者を惹きつけ、筆者の語学学習の起点となり、他の言語を学ぶことでできるようになること、つまり他者理解を求める心に繋がっていったとすれば、『祈り』の歌には「わからなさ」からくる「わかりたさ」が見えるということではないでしょうか。この「わかりたさ」を「希求」として、私の解答例としては「やはり言語を学び、言語を通して他者を理解したい」とまとめています。

今思いましたが、「他者を理解したい」ではなく「(他者の)言葉そのものを理解したい」てもいいかもしれません。私は「聞くのが好き」というエピソードから、「他者を理解したい」にまとめましたが、『祈り』の歌はどちらかと言うと(オクジャワという作者を理解したいというよりは)言葉そのものへの不可解性からくる興味の惹起という感じなので、どちらに重きを置くかなのかな〜と思いました! いや〜長かった。笑

部分点

筆者は、〈『祈り』の歌に言語そのものへの希求を見出している〉。その希求とは、〈言葉と意味の対応が一筋縄にいかない点にも面白さを感じ〉、やはり〈言語を学び〉、〈言語を通して他者を理解したい〉というものである。

繰り返しますが、「この歌をどのように解釈しているのか」ではなく「この歌をどのように考えているのか」なので、歌の解釈それ自体に触れなくとも、「歌に希求を見出している。その希求とは〜」で良いのではないかということです。「この歌にはこのような希求があると筆者は考えている」です。それを二文に分けています!

「言葉と意味の対応が一筋縄にいかない点にも面白さを感じ」を含めることで、「言語って難しいけど面白い、だからこそ(筆者が『祈り』を起点に言語を学んだように)言語を学びたい、理解したい」と繋げている感じです。

傍線部(5)の内容と被ってるのに使っていいの?と思った方もいるかもしれません。メタ的で些末な観点になってしまいますが、この設問が文系設問であり理系の人は解答しないことを考えると、問一〜問三+問五の四問で大問としては自立していて、問四は全体に被せる設問という感じなのかもしれません(なので「本文全体を踏まえて」の設問になっている)。

もちろん、本文において各設問がどこからどこまでの守備範囲を持っているかを推測して、各設問の解答根拠の範囲を区切って考える(設問解答のために読み込む焦点を絞る)ことはテクニックとしては有用ですし、私もよくやる手法です。でもそこは京大ですし、その観点で解答をブラしてしまうことは避けた方がいい気がしております。必要な内容は必要ということで、含めちゃった方がいいかと思っています。

問五

「賢い者には頭」「幸せな者にはお金」を「持たざるもの」としている一見不可解な『祈り』の歌を理解するために、それぞれの言葉の意味を捉え直しながら言葉同士の関連性を探り続けると、この歌の意味の核心に辿り着けそうな気もするが、やはり意味が一つに定まるものではなく、その思考の行き来にも言語の面白みを感じるから。

文系の人は問四でもうお腹いっぱいかと思いますが、こちらの方が(本文終端にありつつも)割と取りやすい設問かと思います。理系の方へのお願いですが、問四と問五は内容的に被る部分もあるので、やる気があればちょっとだけガマンして、問四の解答例と解説も読んでみてください。問五の理解が捗ることと思います。でも問四の解説長いしなぁ……(がんばれ!)。

設問は、「核心は近づいたかと思えばまた遠ざかる」のように筆者が言うのはなぜか、であり、「核心は近づいたかと思えばまた遠ざかる」のように言えるのはなぜか、ではないという点に留意してください。つまり、「核心は近づいたかと思えばまた遠ざかる」という現象(事象)について、それがなぜか考えて説明するのではなく、そのようなことを言う筆者に焦点を当てるべきということです。なんで筆者はそんなことを言うんだろう。

ここまで読んできて、筆者は言語学習に対してポジティブな気持ちを持っていることは間違いありません。その言語学習の起点に位置する『祈り』の歌に関してもまた同様です。『祈り』の歌は一見すると不可解であり、その歌詞についていろんなことを考えると、わかる気もするしわからん気もする。そのような気持ちを持っているから、「核心は近づいたかと思えばまた遠ざかる」という表現を取った、という感じで考えます。そして、そのような「わかりそう、やっぱわからん」の行き来を体験できるからこそ、言語学習は面白いのだという点も添えてまとめるのが良いかと思います。

部分点

〈「賢い者には頭」「幸せな者にはお金」を「持たざるもの」としている一見不可解な『祈り』の歌〉を理解するために、〈それぞれの言葉の意味を捉え直しながら〉〈言葉同士の関連性を探り続ける〉と、〈この歌の意味の核心に辿り着けそうな気もするが、やはり意味が一つに定まるものではなく〉、〈その思考の行き来にも言語の面白みを感じる〉から。

「『祈り』の歌詞に触れつつ」という設問指示が付いているので、ちょっと長めになってしまっています。自分の解答例を何回も読み直しましたが、これ以上縮めることも難しそうです。笑 まぁ五行なので……。

読解後のつれづれ

いやー大変でした! これ本番やったらなかなかキツいやろなぁと思いながら解いておりました。課題文としては読みやすく、でも解答を作るのに深い読み込みと推測・言語化が必要というのが、いかにも京大らしくて私は好印象です。読みにくい文章が難しいのではないということで……(もちろん京大は読みにくい文章も出しますが……笑)。

私も専門が言語学ですので、言語学習に関しては人並みよりは考えたことがありますし、それも手伝って面白く読めました。今回の課題文の筆者はロシア文学研究者とのことですが、もちろん言語(ロシア語学)にも造詣がある方かと思います。これはただの豆知識なのですが、言語学をやっだことがある人は「母国語」とは言わず「母語」と言うことが多いと思います。また、言語の数え方も「○か国語」ではなく「○言語」と言う人が多いでしょう(「今までには4言語を学んできました」とかいう感じです)。日本にいるとやや感覚が難しいかもしれませんが、必ずしも一つの国に一つの言語という訳ではありません(そもそも、どこからを「1つの言語」としてどこまでを「方言」とするかに明瞭な基準はありません)。「母国語」や「○か国語」といった表現は、必ずしも一致するわけではないこの境界を不用に意識させてしまう可能性もあるので、言語学をやっている人はこの表現を避けるものだと思っています。ただ別にこの表現自体が悪いというわけではありませんので、そこは誤解なきよう。

ではでは、こんなところで失礼いたします。今回もお疲れ様でした!

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