総評
文系設問である大問二と同じく、芸術がテーマとなった本文でした。しかしこちらは理系設問らしく(?)、「芸術は科学の共助を必要とする」という内容です。科学というか技術というか、そのようなある意味で理系的側面が芸術の永遠性にどのように貢献するのかといった内容ですが、そういった理系的範疇に留まらない接点を己の中に蓄えておくのも必要ということなのでしょうか。
特に問一・問二はそれほど難度も高くないので、ある程度手堅く得点しておきたい大問と言えます。
解答例と解説
問一
造形美術作品は自然物により造形されているため、文芸や音楽と異なり、時間経過による劣化や破損を免れないから。
この設問だけ「どういうことか」ではなく「のように筆者が言うのはなぜか」なんですね。筆者が同段落中で(造形)美術作品の特質として述べていることをまとめれば概ねOKです。
段落冒頭にある通り、造形美術は「種々の実在の自然物を用います」。彫刻なら石材・木材・粘土など、絵画なら顔料や布地(キャンバス)などです。これらは自然物(というよりは実在物)であるため、時間経過による変化(劣化)を免れないだけでなく、物理的破損の可能性に常に晒されています。そしてこれは「文芸音楽が永遠に伝え得られるのに反し」ているとされています。文芸作品や音楽作品は、実存する本や楽譜自体が作品であるわけではなく(それらは単に媒体であり)、実存しないテキストの連なりや旋律こそに作品の本体性があります。テキストを文字媒体に、旋律を楽譜に落とし込んで複写すれば、本物の作品をバックアップすることができるので、その意味で「永遠に伝え得られる」わけです。一方で、造形美術作品はその実在と作品が分かち難く結びついているため、媒体の劣化・破壊はそれ即ち作品の劣化・破壊となります。造形美術作品はそのような根本的性質により、物質的劣化や破壊の可能性から逃れられないため、「悲しむべき運命」と言えるわけです。
部分点
〈造形美術作品は自然物により造形されている〉ため、〈文芸や音楽と異なり〉、〈時間経過による劣化〉や〈破損を免れない〉から。
「文芸や音楽と異なり」は割と副次的な部分点となりますが、傍線部が「文芸音楽が永遠に伝え得られるのに反し」に続いていることから、あった方が良い気はします。
問二
造形美術作品は、劣化や破損を避けるためだけでなく、経年による自然的変化を取り込んで表現性が深まることもあるため、保存されることの価値が高く、丁重に取り扱われなければならないということ。
「骨董的に取り扱われなければならない」がどういう意味合いかを考えるところからスタートです。本文冒頭の段落末尾の「美術作品の保存そのことに或る価値が帰せられるようになり、ここにいわゆる骨董的価値が随伴する」という記述も参考にしつつ、「骨董的価値」は「古いものを保存することそれ自体に価値がある」というように理解します。よって「骨董的に取り扱われなければならない」は「丁寧に保存されなければならない」のような感じで捉えます。
ほいで、なぜ「芸術作品が常に骨董的に取り扱われなければならない」かというと、傍線部すぐ後、「それが自然物を借りてはじめて芸術表現を行っているという性質」にあり、ここには二つの要素が含まれます。
一つ目は問一で見たそのままであり、造形美術作品は(自然物を用いているため)そのままほっとくと劣化したり壊れたりしてしまうから、丁寧に保存されなければならないというわけです。一方で二つ目は二段落目で述べられているように、「骨董作品にあらわれる自然物の変化はまた得がたいものの一つとも見られ」るからです。時間が経って絵画の顔料の色が落ち着いてくることで「いわゆる寂を生じ気品が増す」ように、時間が経つことで価値が増すこともあるということです。
これらはともに、造形美術が自然的な要素(素材)をその芸術の中に含んでいることによるものです。大きくまとめると、造形美術は壊れるかもしれないし、時間経過で表現が深まるかもしれないしで、「保存」自体に価値があるため、丁寧に扱われる必要があるってことですね。
部分点
造形美術作品は、〈劣化や破損を避けるため〉だけでなく、〈経年による自然的変化を取り込んで表現性が深まることもある〉ため、〈保存されることの価値が高く〉、〈丁重に取り扱われなければならない〉ということ。
上述した内容をそのまま言い直している感じです。特段追記することもないのですが、強いて言えば「保存されることの価値が高く」はやや部分点としての必須性が下がるかな〜ってことくらいでしょうか。これは第一段落の末尾の文から取っています。
また、「骨董的に取り扱われる」については特段他の箇所で説明されているわけでもないので、自分で言い換えるより他ないかと思います。
問三
造形的芸術作品が後世にも常に再現可能となることでその本質的価値を永遠に保存するためには、科学の普遍的永遠的な性質を基とした記録技術の発展・応用を期待する必要があるということ。
傍線部(2)からなが〜く間を挟んで最後の傍線部となります。間の箇所もほどほどに具体的で割と優しく説明してくれていますので、全体を理解の足掛かりとしながら書いていきましょう。
傍線部は「科学の共助を待つことを必要とする」ですが、内容を補うと「芸術がその本質的価値を永遠に保存するためには、科学の共助を待つことを必要とする」となります。
本文において、「芸術がその本質的価値を永遠に保存する」がどのような状態かと言いますと、傍線部の直前にある「芸術はかくして常に再現を可能とせられる」より、「芸術が別途保存され、後にも完全に再現可能となったら、その芸術の本質的価値が再現可能となった」と理解して良いでしょう(ほんとにそれでいいの?と私は思いましたが、本文の範囲では、一旦これで大丈夫です)。
例えば音楽は楽譜や蓄音機によって、その再現可能性を比較的簡単に担保できますし、文芸作品に至っては(間違えなければ)写本でも口伝でも大丈夫です。しかし絵画や彫塑に関しては(少なくともこの文章が出版された一九二五年においては)完全な再現可能性の担保が難しかったわけです。ただ、筆者も「立体的形体を幾何学的に精確にしすることも、そのうちできるようになるんじゃないっすかね」と述べており、ちょうど百年後となる二〇二五年現在においては、3Dスキャナーを使えば普通にできますし、iPhoneでも立体物のスキャンはある程度できるようになっているくらいです。先見性あるなぁ。
このように、科学技術が発展するにつれて造形美術作品を後になっても再現できるようになれば、(本文において)美術作品の本質的価値が保存されていると言えます。傍線部の後で筆者も述べているように、芸術と科学とは別個で扱われることが多いものですが、これらは密接な交渉を持ちうるわけです。よって全体として、芸術の保存のために科学の助けを期待する必要がある、という内容になっています。
部分点
〈造形的芸術作品が後世にも常に再現可能となる〉ことで〈その本質的価値を永遠に保存する〉ためには、〈科学の普遍的永遠的な性質を基とした〉〈記録技術の発展・応用を期待する必要がある〉ということ。
「科学の普遍的永遠的な性質を基とした」は比較的重要度は下がりますが、あった方がよい観点だと思います。そもそも、科学は「同じことをすれば同じ結果が得られる」という物理的前提のもと成り立っている部分があります。同じ環境でりんごが木から落ちれば、同じ鉛直運動をすることが前提にすることができるから、いろいろな想定と演繹ができるわけです。芸術の再現可能性の保存においても、科学的手法を用いるにあたって、この「同じことをすれば同じ結果が得られる」ということは土台となります。同じことをしても同じ結果が得られなかったら再現なんて言うてられませんから。よって、「科学の普遍的永遠的価値」は芸術の記録・再現可能性に寄与しており、記述にも入れた方がいいんじゃねって感じです。
読解後のつれづれ
当時と比較しての技術革新を感じました。科学技術という理系的方面の還元先っていろいろあるよねって意味合いで、理系の皆さんにも読んでほしい文章だったのかもしれませんね。本文で「三次元的立体を機械的に記述することはすでに困難に感じます」と述べられているところで、「あ〜(今となっては)できるできる」って思っていたのですが、筆者もちゃんと「そのうちできるようになるかも」って言っていたので、すげーと思ってました。笑
しかしながら、ここからは本文の範疇を超えますが、果たして例えば彫塑を3Dスキャンしたからといって「再現可能性」が担保されたと言えるのでしょうか? これには二つの観点が含まれると思います。
一つ目は、デジタルとアナログの越境不可能性です。彫塑の表面はアナログ(連続量)であり、3Dスキャンデータはデジタル(離散量)です。もちろん3Dスキャンの解像度(って言うのでしょうか?サンプリング密度?)を上げればより精密なスキャンになり、アナログに近似します。でも厳密にはアナログにはならないはずです。それで再現可能性を記録したと言えるのか?という。
二つ目の観点は、「再現できるとして、再現したとして、再現されたやつは再現と言えるのか?」です。例えばダビデ像を分子配置レベルで(というよりは人類に理解できる範囲で全く同一になるように)精緻に再現したとして、後から再現されたやつはダビデ像と言えるのか?という。なんか直感的には言えない気がしますよね。じゃあ、はたして造形美術作品の価値の保存は可能なのか。細かく見ていくと、文芸作品と音楽作品と造形作品の間には、それぞれの間に越えられない境界がある気もしてきます。
もちろん筆者はいったんそういう論点は捨象して今回の本文を書いていたかとしれませんが、せっかくなので皆さんも考えてみてください。ではでは、今回もお疲れ様でした!




