大学入学共通テスト国語 2025本試[1(評論)]解説

このページは、2025年度大学入試共通テスト本試験 国語 大問1(評論)の解説です。

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目次

解説

選択肢の吟味において、「×・△・?」を選択肢の該当箇所に付けていきます。×は「これはちゃうやろ」、△は「ちゃうかもしれん」、?は「びっみょ〜」って感じです。

問1

(ア) 雑貨 / ①価格 ②稼働 ③外貨 ④転嫁
(イ) 散策 / ①圧搾 ②策謀 ③添削 ④模索
(ウ) 呈した / ①音程 ②贈呈 ③世間体 ④前提
(エ) 一掃 / ①改装 ②荘厳 ③捜査 ④掃除
(オ) 忌まわしい / ①禁忌 ②鬼気 ③危惧 ④棄権

問2 正答④

「観光地住民の『戦略』」については、傍線部Aの二つ前の段落で具体的に述べられています。「観光者が期待する(押し付ける)イメージに適合的な役割を観光地住民が再演することは、観光という荒波から自らの生活文化を守るためのホスト側の『戦略』」とあり、やってくる観光者の期待通りの姿を現地住民が見せることで、観光者の「期待外れ」(からくる不和や諍い)を避けようという感じかと思います。

そのうえで、傍線部Aに続く箇所で述べられているように、「観光客は『演出』に飽き足らずその『舞台裏』を見たがる」「観光のまなざしが全域化していく」とあります。観光客は「現地人の本当の(素直な)生活」を見たがり、それによって現地人の「演出」はさらに微に入り細に入るようになっていかなければならないのかもしれない、というような感じです。まぁ何となく気持ちとしてはわかりますよね。私はあんまり海外旅行とかしないのですが、観光者が「せっかくだから」観光先の「素直な生活」を見て帰りたいという気持ち。そうすると、観光地の人々が自身の生活文化を守るための「演出」は際限なく、バレないかどうかの綱渡りになっていってしまいます。

選択肢の吟味

①「観光者の持つイメージを受け入れることで自らの文化を維持しようとする観光地住民」が?です。微妙ですが、「演出」をすることは必ずしも「受け入れる」ことにはなっていないかもと思いました。受け入れてなくても嘘ついて演出することはできる気がしますし。また、「他者の文化の需要を強いられかねない」も△です。あくまで観光地住民の「戦略」は、観光者が期待する文化を演じることで、自文化を守ろうとすることであり、観光者のまなざしによってそれが全体化し、演出が難しくなっていくことが「綱渡り」とされています。

②「何をどこまで見たり見なかったりするかという観光者の選別に対応していく観光地住民の『戦略』」が△です。観光地住民の「戦略」として、上述の内容から少しズレています。

③「観光者に寄り添おうとする観光地住民の『戦略』」が△です。観光地住民はあくまで自身の生活文化を守るために「戦略」を取っているまでであり、観光者に寄り添おうとするとは書かれていません。

④正答です。「観光者が期待するものを際限なく生活の中で見せていくことになりかねない」は「そこでは観光のまなざしが全域化していく」に対応します。

問3 正答③

傍線部Bに続く二段落ほどで考えていきます。ここまでの本文内容においては、観光は「見る」ものであるということが前提となっていましたが、「見られる」人、つまり観光地の人々は何かを「する」人々であり、文化人類学や地域社会学、環境社会学においてはそちらを当事者として見ます。何かを「する」人に比べると、他所からやってきて「見る」だけの観光者は「しょーもない」という位置付けになります。

また、続く段落でブーアスティンは、かつての旅人(トラベラー)が没落して観光客(ツーリスト)が台頭し、「旅は能動的で命がけの行為から、購入するだけのお気楽な商品れと、『無意味』で『空虚』なものへと成りさがった」と批判しています。どちらにせよ、「する」が良くて「見る」が劣るという構図がありますね。

選択肢の吟味

①「ブーアスティンが旅に命をかけてきた旅人に意味を見出したことによって、『見る』主体の位置付けに変化が生じた」か△です。ブーアスティンの主張においては、旅人に意味を見出したというより、「見る」だけの観光客を批判しているところに重点があります。

②「観光で重視すべきは観光地住民の生活を体験することであり」が△です。確かに傍線部Cより後の箇所でそんな感じのことが書かれていきそうな感じはするのですが、傍線部Bの内容に限ると、「『する』が良くて『見る』が劣る」までであり、「する」を称揚するには(まだ)至っていません。また、「観光における『見る』ことの役割が後退した」も△です。正答である③と比較すると分かりやすいですが、「みなされてきた」という話であって、客観的な感じで「観光における『見る』ことの役割が後退した」とするのはやや言い過ぎです。

③正答です。「見る」観光者は「する」現地人当事者に比べ、招かれざるよそ者であり、「見る」だけの観光は「する」旅に比べて劣るという構図があります。

④「自らの生活や文化に価値を認める生活者の視点を重視する観光研究」が?です。生活者が重視されるのは「する」当事者であるからであって、「自らの生活や文化に価値を認める」という内容がどこから出てきたのか分かりませんでした。また、「『見る』側の観光者が無意味な存在に貶められた」も△です。ブーアスティンが「無意味」としているのは(概念としての)「見る」だけの観光であり、「『見る』側の観光者」という具体な存在を貶めているわけではないかと思いました。

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問4 正答②

①と② で結構悩みました(合ってました)。傍線部である「ことはそれほど単純ではない」を丁寧に見ていきましょう。ブーアスティンは「する」旅が没落して「見る」観光が台頭したことで、「見る」だけの観光を批判し嘆きましたが、そんなブーアスティンの嘆きを後続の観光研究は「『ほんとうの』旅があるかのような幻想にさいなまれている」と批判します。でもそんなに単純じゃない(ブーアスティンの嘆きは単純にバッサリ切り捨てていいものではない)ということは、「ブーアスティンの主張も多少は何か省みるべき点がある」となります。

実際、傍線部Cに続いて、「見る」観光への飽き足らなさや批判が、観光の形を変えてきたとあります。「見る」観光から「する」観光への転換が起き、「観光現象だけでなく、観光研究の視座までもが更新を迫られるように」なっていきます。もともと観光は必ずしも「見る」だけではなかったんじゃね?という問いが生まれ、「観光における身体性やふるまいを重視する視点」が生まれ、「まなざし」だけに着目してきた観光研究への対案が立ち現れていきます。ブーアスティンの「見る」だけの観光への批判は、こういった観光の変化や観光研究の変化に(直接的ではないかもですが)繋がっているものとも言えるので、単純に時代錯誤的な嘆きだと捨て置くことはできないよねって感じですね。

選択肢の吟味

①悩みました。正答である②と比較して、「観光の変化」としておらず「人気の観光商品に押し上げることに繋がり」という範囲にとどまっている点と、「多様な感覚との連関において観光を捉える観光研究」も「観光者のふるまい」よりは範囲が狭すぎるので誤りなのかな〜と思いました。それっぽいことは書いてあると思います。

②正答です。①の解説とも被りますが、「観光者のふるまいに注意を向ける」の中に、「見る」以外のふるまい(=視覚以外の感覚)にも着目する、という内容が包含されているのかな〜と思い、①の後半の内容よりは広い範囲のことが言えているのではないかと思いました。

③「かつての旅人による能動的な旅を再現する観光を要求することにつながり」が△です。「見る」観光から「する」観光への転換は起こりましたが、それが必ずしも「かつての旅人の再現」であるとは述べられていません。再現というよりはもう一回できた感じかと思います。

④「観光地社会に対する無理解さを反省した新しい観光を実践することにつながり」が△です。「観光地社会への無理解さ」といった内容は、この範囲にはあまり関わっていません。また、「観光地に対して観光者が正しくまなざしを向ける方法を探求するような観光研究」も△です。「正しいまなざし」ってなんやねん。そんなものは客観的に規定できないので研究として成り立たないと思います。本文にもそのようには書かれていないと思います。

問5 正答②

①を選んで間違えましたがな。確かに読み直したら②かもな〜。傍線部Dより後の、「観光者を見ない技術」「観光者を見る技術」の例をちゃんと踏まえて考えられていませんでした。

もともと「アーリのまなざし論」として述べられているように、アーリは観光の主たる要素を「見る」に置いていました。しかし、観光において「身体性やふるまいを重視する視点」か興隆し、アーリ自身も視覚だけで観光を説明するのには「限界がある」と認めつつ、まなざし(視覚)とパフォーマンス(身体性)は「ともに踊る」(傍線部D)関係にあると述べます。

その「ともに踊る」関係を考えるうえで、「観光者を見ない技術」「観光者を見る技術」が述べられています。観光において、他の観光客の身体性を感じない方が好ましい場合と、感じた方が好ましい場合があるため、観光者はまなざしを調整するわけです。このように、「身体性」に応じて「まなざし」が動かされることがあるため、「ともに踊る」関係であると表現されています。

続いて傍線部Eです。渋谷パルコが「渋谷という都市を舞台、そこを歩く人びとを主役と見立てて都市空間を演出した。渋谷を訪れる若者たちがまなざしたのは、資本が演出する記号のみならず、それらと『ともに踊る』(傍線部E)身体なのであった」とあるように、ここでは若者の身体性が都市の構成要素の一部となり、「他の若者が街にいること」をまなざすことで、総体として渋谷パルコをとりまく都市が成立していると捉えられます。自分はまなざす主体でもあり、他の若者からしたらまなざされる「渋谷を構成する一要素としての身体」でもあります。パルコという商業施設は資本の記号ですが、そこに若者がいて、それをそれぞれがまなざすことで、総体として渋谷という都市が演出されているって感じですね。これも、若者の存在という身体性とまなざしの両方を捉えることで何かしらが言えそうな感じがするという例になっているのかと思います。

選択肢の吟味

①私はこれを選んで間違えましたが、正答である②に比べて「ともに踊る」の中身に言及できていないのかな〜と思いました。よって「複数の視点を組み合わせることにより新しい研究が可能になることを示している」か△かと思います。

②正答です。が、私は「観光におけるまなざしが観光者の身体と関わって成り立っている」に?を付けていました。これは「観光者を見ない技術」「観光者を見る技術」を「ともに踊る」と切り離して理解してしまっていたからですね。反省。

③「他の観光者とともにあることが観光地の価値を高めるという観光のあり方」が△です。「観光者を見ない技術」があるように、「観光者とともにいないこと」が好ましい場合もあります。

④「『見る』人と『見られる』人とがともに行き交う都市空間のありよう」が?です。傍線部Eの「ともに踊る」は渋谷パルコという資本記号によるイメージと、人々の身体性・まなざしが「ともに踊る」という内容なので、「見る」「見られる」がともに踊っているわけではないと思います。

問6 正答②

やや短い箇所から判断しないといけません。傍線部Fの前の段落における「相互のまなざし」を踏まえつつ、最終文である「かつての万国博覧会とは違って、彼らを見ているのはもはや人間ではない」から考えます。

観光地に行く時、観光者(ゲスト)が現地住民(ホスト)をまなざすのと同時に、ゲストはホストからまなざされてもいます。サファリパークに人間(ゲスト)が入っていく時も同様で、ホストである動物は「物欲しげに人間をまなざす」わけです。動物側からすれば、人間は「檻の中の見せ物」であり、かつての万国博覧会で植民地住民が「展示」された構図と重なります。万国博覧会においては「見る主体」と「見られる客体」の間には乗り越えがたい線が引かれていたわけですが、サファリパークの動物は「見られる客体」に徹することなどはしないので、「見る主体」でもあるわけです。人間はもちろん人間側が「見る主体」だと思っているとは思いますが、「見られる客体」である動物側が、そんな意を何も解さずに、素直に人間を「見られる客体」として扱い、「見る主体」としてふるまう時、果たしてどっちが「見る主体」なのかという疑問が出てきますね。この意味で示唆的と言えるかと思います。

選択肢の吟味

①「ゲスト側のまなざしとホスト側のまなざしの非対称性を考えさせる」が△です。全体として、どっちが見る側でどっちが見られる側かわかんないよね、という方向性なので、「非対称性」は少し外れます。

②正答です。上述の通りです。

③「サファリパークは、見る側の観光者が『招かれざる客』であることを想起させる」が△です。サファリパークにおいて、人間はそんなに肩身が狭い身分であることを自覚させられてはいないと思います。

④「サファリパークは、観光者相互のコミュニケーションのあり方に注意を促す」が△です。あくまで「見る人間」「見られる動物」(逆もまた然り)の間の話なので、「見る人間同士のコミュニケーション」の話ではありません。

読解後のつれづれ

私も本文にも述べられているオーバーツーリズムの地、京都の生まれですが、まぁ〜ここまで「観光都市の所属者」としては振る舞っていないな〜とは思いました。観光客から観光地の一要素として見られている自覚があんまりないからでしょう。

ただコロナで観光客がいなくなった京都は快適でしたね……(当時はまだ京都で学生をしておりました)。そんな時、私も観光者をまなざす現地住民の一員であったのだなぁと思います。今は東京に住んでるわけですが、私は京都に帰ればまだ京都の一要素としてふるまえるのでしょうか? わかんないですけど。

さて、今回もお疲れ様でした!

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