かぎかっこに頼りすぎない生活

こんばんは。今回は「かぎかっこ」の話です。早速かぎかっこという語を「」で囲むという行為に打って出ましたが、まさにこいつの話です。

もしかすると今までかぎかっこについてあまり考えたことがない方もいるかもしれないので、試しに読んでみていただければと思います。

目次

かぎかっこのはたらき

かぎかっこのはたらきは以下の3つに大別できるのではなかろうかと思っています。

①区切り記号

主に小説などでセリフを囲むときのはたらきです。かぎかっこは「ここからここまでがセリフだよ〜」ということを示す区切り記号としての働きをします。(例示と説明を一挙にしてみましたがいかがでしょうか)

②強調

取り立てて示したい語をかぎかっこで囲み、文章中から浮き上がらせることで強調するはたらきです。多くはセリフではないですが、もちろん区切り記号としてのはたらきと重なる部分もあります。文章の中でここは特に「強調」して言っておきたいという場合です。

③語に特異な用法・意味を込める

これも②と重なるはたらきです。強調として普通に「強く言いたい」だけでなく、文脈等々から「うまいことこんな感じの意味で捉えてくれ」という思いを明示するものです。以下みたいな感じ。

私が彼と出会ったのは19XX年の夏のことだった。それこそまさに「始まり」だったのだろう。

ここでは、「始まり」という語が、単なる私と彼の関係の始まりではなく、「私と彼の間のさまざまな出来事や心象を孕む関係の始まり」であることをふんわり感じさせます。

これ、比喩とも被る部分がある気がしますね。比喩は別の語に言いたいことを託す用法ですが、かぎかっこで囲む語も、かぎかっこ内の語と周囲の文脈の力を借りて、丸ごと投げつける形で伝えようとしていると思います。

例えばこうすればどうでしょう。

A:それこそまさに「始まり」だったのだろう。
B:それこそまさにスタート地点だったのだろう。

下はちょっとキモい気もしますが、比喩寄りの表現です。かぎかっこによる表現と比喩による表現とで手法は違いますが、ともに「細かいことを分析的に説明するのではなく、まるっと語をぶつけて読者に解釈してもらう」という伝え方であるように思います。

手法読者にぶつける語読者は
かぎかっこかぎかっこで囲んだ当該語取り立てて特異な
語として解釈する
比喩別の語別の語のイメージを
踏まえて解釈する
こういう感じの整理。どちらにせよ、語をぶつけて読者に任せる寄りの表現手法な気がします。

かぎかっこに頼りすぎない

高校生の頃だったかと思いますが、当時の国語の先生に、かぎかっこに頼りすぎないという教えを受けました。

というのも、かぎかっこの③の用法を多用すると、「上手いこと言っている感」に浸れてしまい、自分としては伝えている気になってしまうが十全に伝えられていないという状態に陥ってしまう可能性があるためです。

かぎかっこで囲んで丸ごとぶつける伝達は、ともすると説明不足になったり、もっと細かい言葉で詳述した方が伝わり良い瞬間に、かぎかっこで済ませてしまったりということになりかねないということですね。

幅のある表現もまた良いし、自覚的に選択するのがいいのかも

ただ、③のかぎかっこを使うこと自体が悪いということではないと私は思います。比喩もそうですが、丸ごとぶつける伝達はその分読者側の解釈の余地を生みます。それは必ずしも「伝わらない」ことを意味しません。

時に、文章は筆者の意図しないながらも「妥当な」解釈を生みます。それは多くの場合「誤解・誤認」として捉えられますが、例えば詩などでは、そこにこそ文章の世界の広がりと解釈の面白さが詰まっている場合だってあると思います。

とはいえ、日常で詩のような伝達は少ないと思いますし、自分の言いたいことがしっかり伝わることの方が大切である場合が多いです。

そこでは、かぎかっこで丸ごとぶつける伝達と、しっかり言葉を尽くして詳述する伝達のバランスも見つつ、言いたいことを伝わるように、そして言いたいように言いたいものです。

ではでは、今回はこの辺で。

 

追伸:比喩(特に暗喩)について、以下の記事で考えました。よければ。

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