カタカナ語、伝わりにくくて伝わりやすい

こんばんは。先日の記事を大学の後輩が読んでくださり、ご感想とリクエストをいただいてしまうという幸甚に至りましたので、また意気揚々と記事を書くものです。

曰く、

さらに勝手な解釈に寄せて?しまうと、意識高い系と揶揄されがちなカタカナ語の類いも、独特の文脈と複合的な意味合いをもって端的に意図を示せる便利な言葉だなぁと思うようになりました。
……良い例が今全く出てこないのでもしかしたらそんなことはないのかもしれませんが。笑
僕の尺度なんですけど確かにあった気がするんです、単に一義的な言い換えしかできない微妙なカタカナ語と、そうではなく独自のニュアンスを伝えられるものが。
ジョンさんの会社ではどんな言葉がよく使われるか分かりませんが、ビジネス用語やカタカナ語についてもお考えを自由に展開していただけると幸いです😊僕の会社ではいい感じのカタカナ語はあんまり見られないですが🤔

(本人了承のうえ引用、太字は引用者である筆者によるものです。あと私が本当にジョンって呼ばれていることを示してもいますね。笑)

目次

わかりにくいとされるカタカナ語ってありますよね

特に社会人の皆さんは出会ったことがあるのではないでしょうか? 職場で時々使われる、ちょっとスカした感じのカタカナ語。私の会社で使われることがあるかな~っていうのは以下みたいなものでしょうか(比較的マシな方だと思います)。

  • アジェンダ
  • リスケ
  • キャッチアップ
  • ステークホルダー
  • ペルソナ  ……などなど

このほかに、パっと思いつくものでもうちょっと程度の甚だしいものを考えてみると、

  • イニシアティブ
  • アジャイル
  • ナレッジ
  • ペンディング  ……などなど

まだまだいっぱいありますね。

こういったカタカナ語は、ネット上などでも揶揄の対象となることが時折あるように思います。大体は、こういったカタカナ語を多用する「デキル」ビジネスマンを引き合いに出して、「何言ってるかわかんね~笑」みたいな。

その気持ちも分からないことはありませんが、こういったカタカナ語が日本語の中で局所的な市民権を得、使われているのにもそれなりの理由があるように思います。

語は固有の文脈をまといます

それぞれの語にはそれぞれの意味があります。さらに、その語が「どういう時に、どういう文脈で用いられるか」という使用の在り方を踏まえ、ふんわりとした「雰囲気」みたいなものもその語には付随している気がします。

例えば、↑で例示した「ナレッジ」という語は、英語のknowledgeから来ていることが明らかですので、いわゆる日本語に直せば「知識・認識・情報」みたいな意味になります。では、皆さんが普段「知識」というところを「ナレッジ」に互換できるかというと、そうじゃないことが多いですよね。そしてそれは逆もまた然りです。

それはなぜかと考えると、「意味的には間違ってないんだけど、ちょっと雰囲気違うから」なんじゃないでしょうか。それは、日本語か英語か、ということでもちょっとはあるのですが、どちらかというと「どういう風に使われるか」によるものです(ていうか、「ナレッジ」は英語ではなくカタカナ語として日本語の中に組み込まれているので、まったくもって日本語です)。

ナレッジ

組織にとって有益な知識・事例など、付加価値のある情報を指す。例文「暗黙知を形式知に転換してナレッジを共有化し、企業の競争優位性を確保する」

https://liginc.co.jp/life/business/85739

ビジネスの場においてある人が「ナレッジ」という時、その人の言いたいことは「みんなにとって役に立つっぽい感じのいい感じの知識とかなんかそういうの」とかいうことなのかもしれません(伝われ~笑)。「そういう雰囲気」をまるっといい感じに伝えてくれるのが「ナレッジ」という一語というわけですね。

語は、中核としての意味を伝達するだけでなく、こういった「用いられる文脈」を想起させるトリガーとして働きます。

したがって、「ナレッジ」という語は「知識」という語とはまた違った文脈を持っており、その文脈のふんわりとした支えの力を借りつつ意味を伝えたいという場合には、非常に便利な手法となります(もちろん、その文脈を相手も理解しているという前提が必要ですが)。

偉そうに「文脈」といっておいて何ですが、ここで言う「文脈」と「意味」の境界は曖昧だと思います。本記事では深入りしませんが、ことをややこしくしているのは、文脈をまとうはずである語の意味それ自体が、文脈から生まれるとも捉えられる点です。特定の語には特定の文脈が付随しますが、語自体も文脈(さらに大きく、ソシュールという言語学のえらい人の言葉を借りれば「体系」)によってその意味を定められるという。語か文脈か、鶏か卵か……という感じですね。この点についてはまた詳しく考えたいとも思います。

全くの同義語は存在しない(……はず)

こう考えると、文脈はそれぞれの語に固有なものであり、そこまで含めると完全に同義の語のペアというのは存在しないと言えると思います。

例えば「幸福だ」と「幸せだ」は限りなく同義な気がします。では、皆さんの友人が

「いや~昨日幸福なことがあってさ~」

と言ってきたときと、

「いや~昨日幸せなことがあってさ~」

と言ってきたときで、印象は全く同じでしょうか。前者の方が、ほんのちょっとだけ大仰な気がしません? この例においては、その「ほんのちょっとだけ大仰な気がする」が、「幸福だ」という語がまとっている文脈といえるかもしれません。その点において「幸せだ」と「幸福だ」は全く同じとは言えません。

このように、語はそれぞれの文脈をまとっており、その語を用いることによって文脈を一緒に伝えることができるということかと思います。

カタカナ語と仲がいい人と一緒に、カタカナ語と仲良くするのがいいのかも

とはいえ、途中で述べましたように、語が文脈を想起させるトリガーとして十全に活躍してくれるのは、自分と相手の間で、その語が持つ文脈をある程度共有できている場合に限ります。そうでなければ「う~ん、カタカナ語でカッコつけてる……?」と思われてしまうのがオチです。

よって、例えば会社によってよく使われるカタカナ語の種類や程度が変わるのはある程度合理的です。同じ会社のメンバーは多くコミュニケーションを取りますので、その会社におけるカタカナ語の文脈を共有しやすいからですね。

ですので、ともすると「意識高い」と言われてしまうカタカナ語も、要は相手と使いようカタカナ語と仲がいい人に対しては、バンバン文脈がコミュニケーションを支えてくれますので、非常に滑らかな意思疎通ができるかもしれません。

あれ、これってカタカナ語に限りませんね。いわゆる「難解な」漢語とか、あまり使わない和語とかもそうです。自分が言いたいことを、自分が言いたい語で言って、たおやかな交感が実現するのは、お互いの文脈の共有度が高いということ。なかなか幸せなことかもしれません。「たおやかな交感」という句の文脈、はたして読者の皆さんと共有できているんでしょうか……(おそるおそる)。

それでは、今回はこの辺で。またお会いできますよう。

役に立ったらお友達にシェアしてね
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次