なんで国語やるの? 〜私が思う国語の幸福論〜

こんばんは。年度末に向けて仕事もちょっと大変な今日この頃です。

今回は、私も何度も聞かれた質問であり、中高生がよく思う疑問でもあるように思う、「なんで国語やるの?」という問いに関して、私の考えを書こうと思います。

予めご留意いただきたいのは、これは国語の真理を述べるわけではなく、私個人の国語という科目に対する解釈であるという点です。その点ご了承いただき、皆さんの参考になれば幸いです。

目次

端的に結論を言うと

「何で国語ってやるの?」に対する私の答えは「幸せになるため」だと思っています。

あ〜〜怪しい! 怪しい人!って感じですが、ちょっとだけ話を聞いてください。笑

もう少し詳しく言えば、「自分の幸せの定義を自分で行うため」とも言えます。

ここで言う「幸せの定義」とは、「自分の幸せとは何か」であり「自分はどういう状態であれば幸せだと感じて生きていけるか」です。

現代を生きる人は、インターネットの普及などもあると思いますが、非常に多様な情報・状況・環境を自覚して生きていかなければなりません。その中で、かつて幸せの理想形として君臨していた「ステレオタイプの幸せ」を盲信することはもはや不可能なのではないでしょうか。多様さに浸る我々は、画一的な幸せを幸せとして享受できなくなってしまったのかもしれません。

そうして現れてくる問題は、それぞれの個人がまさに自分で「自分にとっての幸せ」を定める必要があるということです。これはとっても難しいことであると私は思っています。

「自分にとっての幸せ」を定義するのは

自分にとっての「幸せの定義」を考える素材となるのは、自分の経験や思考の仕方なのではないでしょうか。あの時うれしかったな、逆にあの時は悲しかったし避けたいなという気持ち、こう考えると自分にとって得だな、気分良く過ごしていけるなという考えなどです。

私たちは日々さまざまなことを考え、経験しています。その積み重ね・組み合わせによって、「自分はこういう状態が幸せである」という定義を組み上げていくという感じです。

我々ができる経験には、生きる日々によって限界がある

しかし、例えば進路選択などで人生の岐路に立たざるを得ない高校生の時点でも、学校生活以上の経験を積むというのも難しいですよね。

そこで国語です。国語は我々の母語である日本語というフレームを使って、比較的馴染み深い形で、文章を通して「他者の思考」「自身の知らない世界」「経験し得ない経験」「自分の中にはない表現の在り方」と出会うことができます。

論説文他者の思考
説明文この世界の別側面
小説文自分では経験しえない経験
古文・漢文過去の思考・感情・経験・表現
学ぶ対象と受容できる要素
「自分の中にはない表現の在り方」は全ての文章種に言えます

そこには、この世界で自分とは全く違うことを考えている人がいたり、この世界とは違う世界があったり、現実では経験し得ない経験と感情、思考があったりします。そして我々はそれに共感したり、反論したりすることもできますし、自分の周りにいる人とそれについて話すことでさらに深めることもできます。

こう考えると、国語は自分が触れられる世界の範囲に、時間や空間を超えた広がりをもたらしてくれるものであるとも言えないでしょうか(私としては、そもそも国語はそれを目指すべきと思っています)。

「幸せの定義」は死ぬまで書き変わっていくもの

もちろん、国語を教科として学ぶ時期が終わっても、広がっていく世界の中でたくさんの経験や思考を経て、幸せの定義は刻々と変わっていきます。その時その時の自分と一緒に、少しでも幸せだと思える、もしくはマシだと思える方向に進んでいこうかと考えたいものです。

もし、「自分の幸せってなんだろうな〜」って思う時が来れば、今回のお話も参考にいただければと思います。そしていつか振り返って「国語、悪くないじゃん」って思ってくだされば、私としてはこの上ないことです! ではでは。

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