国語の正解ってなんだろう

こんばんは。思い返せば大学生の頃、バイト先の塾で「国語より数学の方が好き。だって正解があるから」という声を幾たびも聞きました。私は数学がニガテですが、とはいえそんな気持ちもわからなくはないです。

今回はそんなお声を踏まえて、「国語の正解」ってどういうものなんだろうってことについて、私の考えを書いていきたいと思います。

目次

どうして小説文読解は入試になり得るか

前提として、文章を読んで「どう感じるか」は人それぞれです。それなのになぜ、例えば小説文は共通テストにも出題され、多くの大学の入試問題になり、たくさんの人の人生を左右することが許されているのでしょうか。そんな狼藉が許されて良いのか、いや良くない?(反語)

そもそも、国語の入試問題は、個々人の感じ方・考え方を問うものではなく、「文章を妥当に読めばこのような解釈になる→そう読めているか」の一致不一致を問うものだということです。

「妥当に」、便利な言葉ですね……。選択問題なら最も妥当なのが正解となるわけです。

以前にも少し書きましたが、本当に厳密な意味で同義語というのは存在しないと私は思います。ですので言い換えの選択問題というのも、一番マシな(近そうな)言い換えを選ぶ問題であると捉えています。

国語における正解(妥当)とは、国語ができる(という身分の)人と同じ考え方をすること

では、その「妥当さ」もとい「正答性」はどのように担保されているのでしょうか。
これ、言っちゃえばかなり恣意的で、あっけらかんと言えば「作問者と同じ考えをする」が正解です。

「え〜! 作問者が間違ってるかもしれないじゃないか!」おっしゃる通りです。そこで、入試など当該問題の重要性が増すほど、一般的に国語ができるとされる人間が複数名参画しながら問題の妥当性を検証するわけです。そうしてかろうじて、問題と解答(例)の「正しさ」が担保されたような気分になります。その舞台の上で受験生は闘うわけです。なんかちょっと納得いくようないかないような。

正しさってなんなんでしょうね

ここでいう「正しさ・妥当さ」は、国語が比較的できるとされる人間が、多くの人間の代表として、「多くの人間の読みはこうだろう」と考えてやっているということです。

多くの人間と同じ読みをすることは、細かいところまで滑らかなコミュニケーションをする基盤となります。その名目で、国語は科目化・学力化され、入試に織り込まれているわけです。

少し余談になりますが、一方で「考え方・感じ方・表し方が人それぞれであること、それを交流すること」も(特に授業における)国語においてとっても大切な要素だと思っています。それは各人の「幅を広げる」ことに役に立つからです。

この点は昨日の詩の記事にも書いたので、よければどうぞ。

ある程度幅のある国語も私は好きだな

ただ、作問者という(多くの場合少数名の)人間が正答性を担保する国語の「正解」は、一般的にほぼ全体の人類が納得できるような「真理」とは到底言えません。
ですので、冒頭にご紹介したような「国語には正解がない」というご意見の気持ちもよくわかります。

でも、この国語の在り方って、私は結構好きなんすよね〜。
正答性に揺らぎなさがない(=揺らぎがある)からこそ、その揺らぎの隙間に自分を挟み込みつつ正解するってことができると思うんですね。

例えば、記述問題で「自分らしさもあるし正答性もある」解答が作れたりしたら、すごいいい気分になると思いませんか? 私は思う。笑

本文と自分の言葉の距離に気を遣いながら、あくまで自分の言葉で解答を作り、それを「正解!」として評価してもらえるのは、国語の大切な価値だと思います。もちろん逆(自分の言葉が不正解とされるとかなしい)もまた然りなのですが。。。

おわりです

今回は、国語の正解って完全に客観的なものではないから大変なこともあるけど、それはそれで面白いところもあるんじゃねって話をしました。

国語は、同じ言葉を使えるようにすることで、日本語というコミュニケーション基盤のキメを細かくする価値と、違う言葉を使えるようにすることで個々人の思考表現の幅を拡張する価値との両方を担わされています。

国語の読解問題は、そのうち前者の程度をチェックするためのものです。そこには息苦しさもあるかもしれませんが、その中で自分らしさを発揮する余地もあります。私はそこんとこ、嫌いじゃないよ。

ではでは、今回はこの辺で。

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