こんばんは。記事第一号として何を書こうかなと思っていたのですが、まぁ~今書きたいことを書けばいいやと思ったのであまり深く思い入れず書いちゃいます。
しばらく記事の形態とかも手探りな部分が大きいので、初期は大目に見てやってください。笑
タイトルにもある通り、今回は「やばい」や「エモい」といった「大きめの意味を持った語」について、いろいろ言われることがあると思いますが、こういった語にも好きポイントがあるよねっていう感じの話です。
大きな語は槍玉に挙げられることもありますが
特に「やばい」はその使用に関して、ネガティブな意見があるというのも事実です。(程度は主張する人それぞれですが)ネガティブな意見は概ね以下のような文脈であるように思います。
- 「やばい」という語で済ませてしまうことで、感情や叙述の細分化ができていない(のが良くない)
- ↑によって、伝達性が低い(伝わらない)
- 日本語にはこんなにも豊かな語彙があるのに、使わないのはもったいない
などなど。(時々お気持ち表明的な発言も見受けられますが)こういった意見にも確かに一理あると思います。
このように、ともすれば批判されてしまうこともある「大きな語」ですが、それでも「やっべ~」「エモ……」って言いたいとき、あるじゃないっすか! そこで今回は、こういった「大きな語」の良さみについて考えてみたいと思います。
そもそも、言葉を割って細かく叙述することの価値って
前提として、言葉は「自分が述べたいモノ・コト」を他者に伝えるための媒体として働きます。そして、同じモノ・コトを伝える場合でも、さまざまな言葉の候補を考えることができます。
例えば、皆さんの心に「悲しい」という気持ちがあり、これを他者に発信しようと思ったとします(Twitterなど不特定の他者への発信を含みます)。その際に、より今の自分の「悲しい」にぴったり合う表現を探して、「悲痛な」「悲哀に溢れた」「悲嘆に暮れる」「暗澹とした」といったような言葉を持ってくることもできます。
したがって、「自分の言いたいモノ・コトに、よりぴったり合う気がする表現を用いることで、自分の言いたいモノ・コトをより詳細に分かってもらえる可能性が上がる」ということが、言葉を割って細かく叙述することの価値だと言えるかもしれません。
私たちの心は、もともとアナログな(連続的な)混沌だから
そのように、「より伝わる」のであれば、物事を細かく述べることはいつ何時も良いことであるようにも感じます。
一方で、ともすると「より伝わらない」とされる「大きな語」にも良さがあると私は思っています。それを喩えて言えば「伝達の丸ごと性」とでも言えましょうか。。。
特に、伝えたいことが自分の気持ちだった場合、言葉を割って詳述することは、自分の心の中を分析し・切り分けて言葉に落とし込むことになります。
でも、我々の心というやつは時に厄介な混沌であり、いつも上手いこと分析できるわけじゃないっていうのもまた事実。そんな時、たとえ伝わりにくいかもしれなくても、大きな言葉に丸ごと託して、とりあえず世界に放り投げておきたい、わかってくれそうな人にぶつけておきたい、そんな言葉の使い方も、とても素敵なものなのではないかと私は思うわけです。
大切なのは、TPOと伝えたい大きさに合わせて言葉を選んでいくことなんじゃないか
もちろん、いつも大きな言葉で包んでおけばよいと言いたいわけではなく、自分の心を言葉によって切り分けて整理するというのも、心とうまいことやっていくために大切なことだとも思います。
時と場合、そして自分が何をどのように伝えたいかによって、言葉の大きさに関しても自覚的に言葉を選べていれば、自分の心とうまくやり取りをしていけます。また、たとえ他の人に自分の言葉をとやかく言われようと、「やかましい! 私はこの語がいいの!」って心の中で反論しておくこともできましょう。それって、自分の心と言葉遣いに対する穏やかな視座につながるんじゃないかなと思いました。いや~エモいっすね。
ともすると糾弾されることもある「大きな語」ですが、いい感じにお付き合いができれば、コミュニケーションや自己表現を気持ちよく行えることもある気がします。そのチューニングをすることで、自分が言いたいように、言いたいことを言えるようになりたいものです。
何か悲しいことがあった時、時にその悲しさを切り分けてしまわずに、「悲しいなあ」という言葉で心に抱えておいたり、ただそのまま述懐するのもいいじゃない。
それでは、今回はこれくらいで。またお会いできることを。