「推し」の話

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こんばんは。皆さんいわゆる「推し」っていますでしょうか。私はいるっちゃあいますが、いると言えるほどでもないかもしれません。

今回は、そんな「推し」というものに対して、前々からなんとなく思っていたお気持ちを文書にしたいと思います。

目次

「推し」概念が認知を得るにつれて、「推す」ハードルが高なってません?

昨今、主に若者の文化という文脈で「推し」という存在が取り立てられることが増えてきたと感じます。

特に広告とかでは、若者に刺さりそうなフレーズとして、「推し」を使うこともあるのではないかと。

「推し」が最も一般的なのはアイドル領域なのかなと勝手に思っており、グループ全体が好きなのであれば「箱推し」ですし、特定の好きなメンバーがいればその人が「私の推し」になるんだろうなと思います。

そうしてさまざまな「推し」を推す人がクローズアップされるにつれて、私は「推す責任」みたいなものをうっすら感じています。

「○○は私の推し」と言うためにはこれくらいのコスト(時間・労力・お金)をかけていないといけない気がする、みたいな。誰に言われたわけじゃないけど、なんかそういう強迫観念みたいなもの。(本当に言われたことがある、そういう言説を見かけたことがある人もいるかもしれませんが……)

「推し」って「推薦」じゃないっすか

ここでお得意の、言葉の話としてみます。

そもそも「推し」という言葉は、もちろん「推す」という動詞の連用形名詞的用法から来ていると思います。「推す」って、「推薦する」ってことですよね。

動詞のタイプとして、「自分1人でもできるやつ」と「他者がいないとできないやつ」を大別することができるというのはご存知の方も多いでしょう。英語でforを使うかtoを使うかのやつです。
例えば「読む」は砂漠にただ1人でもできるけど、「教える」は相手がいないとその動詞そのものが成立しないってやつです。自分だけで「教える」はできませんよね。(自分が自分に教える、とかは自己を分離して他者化している感じがするのでノーカンです)

さて、「推す」はどうでしょう? 「推薦する」と考えると、砂漠にただ1人、誰もその推薦を聞いてくれる人がいない状況で、「推す」ことはできるんでしょうか。自己満足はできる気もしますが、「推薦する」はあまり成り立っていない寄りなんじゃないかと思います。よって、「推す」は他者が前提とされる方の動詞により近い気がします。

他者の存在はハードルになりうる

そういうわけで、「推す」が他者の存在を前提とするのであれば、そこには他者という思い通りにならない存在が介在することが多いということになります。

そんな他者に、自分の「推し」を納得してもらう際、コストをかけているほどその説得力は増すのかもしれません。私がこんなにもコストをかける価値があると思う「推し」はそれだけ魅力的な存在なんだよ、という感じで。

そういう在り方がピックアップされることで、「推す責任」みたいな印象を私にもたらしているんじゃないでしょうか。

こう考えると、他者が介在する「推し」概念、結構エネルギー要るなぁとも思っちゃいます。好きは好きだけど、他の人に「推薦する」という、ともすれば押しつけをするのかどうか。

それはそれで大変だなって思って、私はあんまり「推し」って言わない気がしますし、「推し」という概念にそこまで強く共感していません。

「推し」という言い方をする人は、強い気持ちを持っている「推し」が本当にいる人と、そういう人たちに好奇の目・興味を持っている外野の人とかなんじゃないかなと、なんとなく思っています。

おわりです

さて、ここまでうにゃうにゃ言ってまいりましたが、そのエネルギーが活力になっている人もいるというのはよくわかります。それぞれのモチベーションとエネルギーの程度を以て、自分が好きな対象との間に、自分にとって心地の良い距離感を持てていけると良いですね。

無難なまとめとなりました。ではでは。

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