国語で詩をやる意味って何だろう

こんばんは。教育実習で高校生に詩を教えたジョンです。今回は、かなしくも多くの人があまりやる意義を見出していないであろう「詩」について、こういう考え方もできんじゃねって話をしたいと思います。

なんでわざわざ教育実習で詩を?

教育実習では、大体の場合教科指導の先生がついてくださります。その先生に「詩をやってみようか」と言われたから詩をやったわけです。

私も「なんでよりによって詩を……?」と思ったものですが、その先生が教育実習生だったころに、教科指導についてもらった先生から「詩をやってみようか」と言われて詩をやったからだそうです。笑
なんと、2つ上のその先生にも私は高校在学中に大変お世話になっており詩を教えるのやべ〜とは思いましたが、まぁそういうことなら仕方ない。

詩にもいろいろありますが

ここでいう「詩」は主に現代詩のこととします。いわゆる現代文寄りの日本語で書かれた自由詩です。

国語では、それ以外にも和歌や川柳、漢詩など、現古限らずさまざまな形の詩を扱うことがありますが、私の感覚的にはその中で最も学ぶ意義がわからないがちなのが現代詩かもしれません。

そもそも、詩ってなんなんだろう

ここまで何も考えずに「詩」と言ってきましたが、そもそも詩ってなんじゃい。

前提として、国語では便宜上「現代文」「古文」や「評論文」「小説文」「随筆文」などと言った区分を文章に当てはめますが、この区分も明瞭なものではありません。だって文章は無限にあるわけですから、「なんか評論っぽい随筆」とかもあるわけです。

そのうえで、「詩」の中心的な定義は何かを考えますと、「任意の文量で、あるテーマについて、筆者独特の捉え方や表現の仕方を言葉にしたもの」とかになるかもしれません。この定義、評論や随筆を除外できていないのでほとんど何も言ってね〜のと同じですね。

まぁ皆様が小中高生の頃に詩に触れた経験を信じて、話を進めたいと思います。「おれはかまきり」(工藤直子/かまきりりゅうじ)とか「りんご」(山村暮鳥)とか、「春に」(谷川俊太郎)とか、「およぐひと」(萩原朔太郎)とか「二十億光年の孤独」(谷川俊太郎)とか、国語で習いましたでしょうか……?
(リンクで当該詩のGoogle検索が開きます。なつかしー!ってなる詩があればうれしいです)

私が思う詩を学ぶ価値って

上述したように、文章の種類というのも境界が不明瞭なものですので、詩に限定した価値があるわけではないのですが、特に詩においてその学ぶ価値が比較的高そうな観点を挙げるとすると、以下の2つになるかな〜と思います。

①捉え方、表現の仕方に特異性が含まれていることが多い

筆者は、それぞれのテーマについての自身の捉え方を、自身の表現の仕方によって詩に込めます。その際は多くの場合、言葉を重ねて詳述するのではなく、筆者が思うもっともぴったりなサイズで言葉を連ねることが多いと思います。

よって、その表現はともすれば言葉足らずだったり、意味わかんなかったりするわけです。

しかし、「意味がわからない」は「自分とまったく異なる捉え方・表現の仕方」の結果であるかもしれません。そこには自分にはないものを取り込むチャンスがあったりもします。そうやって自分の世界を大きく鮮烈に広げる可能性が詩に潜んでいることもあると思います。(筆者と自分の隔たりが大きすぎて、結局わからん、で終わる可能性もありますが……笑)

②解釈の幅が広い

そんな詩は、その本文をどのように捉えるか、どのように感じるのかについて、読者側の解釈の余地がかなり大きい文章種であると言えます。例えば、先ほど例示した山村暮鳥の「りんご」を見てみましょう。

りんご (山村暮鳥)

 両手をどんなに
 大きく 大きく
 ひろげても
 かかえきれないこの気持
 林檎が一つ
 日あたりに転がっている

国語の授業でこの詩を扱った人もいらっしゃるのではないでしょうか。もしかすると、先生にはなんかそれっぽいことを言われ、なんとなくもにょもにょしたままその単元が終わったという人もいるんじゃないかと思っています。

それもそのはず、評論文や小説文に比べ、詩は解釈の幅が広い分、「妥当な読み」の幅も相対的に広くなります。そして、「妥当な読み」と「誤読」の境界ですら曖昧に思えます。

ただ、だからと言って詩の読解は「何でもあり」なのではありません。詩という本文は厳然として存在しており、その本文は1文字たりとも動きません。そして解釈の広がりは、必ずその本文の1語1語に依拠しなければなりません。

国語は、母語で行う営為として、「正しく読む」というスキルを伸ばすことと、「思考・表現の幅を広げる」というコンピテンシーを養うことの両方を期待されています。詩はどちらかというと後者の方により寄与できるのではないかと思います。ただ、それは必ずしも前者のスキル的側面を蔑ろにしてよいというわけではないということですね。

詩の世界はふんわり広がっている

詩は、本文という軸を持ちつつ、他の文章種よりも広い解釈の世界をまとっています。そして、そこをどう泳ぐかは読者にある程度の裁量が渡されています。よって、他者との解釈の交流がより重要だったりもするんじゃないかなと思います。

また、ともするとその泳ぎ方は、筆者ですら想定していなかったものかもしれません。そういう意味で筆者をも超える可能性を持った詩という文章種は、結構面白くもあり、その分難しかったりもするわけですね。

なにはともあれ、これから国語で教育実習に行かれる方が「詩をやろっか」って言われないことをちょっとだけ祈ります。笑

おわりです

今回は詩について書いてみました。詩は他の文章種よりも広い解釈の世界を持っていますので、自分の解釈の世界を広げる刺激となってくれます。わからなさやもやもやは、その詩が自分の枠の外にあったり、自分の枠と一致していなかったりすることから来るものだと思います。そこにもちょっとだけ歩み寄って枠を広げてみるのもいいかもしれません。

そういった刺激を与えるきっかけとして、学習材としての詩を学習者に渡せると、それはこの上ないことかもしれませんね。

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