多言語をかじる

こんばんは。大人になるにつれて1日が早く感じるようになるのはなぜなのでしょう(今日も早かったな〜)。

さて今回は、大学で人よりかはたくさんの言語に触れてきたことを振り返って、もう大抵忘れちゃったけど、いろんな言語を学んでよかったかもって話です。

大学でいろんな言語をちょっとだけでも学ぶのもいいかもなって思っていただければ幸いです。

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私の言語学習はかなり浅く広く

言語を学ぶ姿勢も、大きく2つの方向性がある気がします。

1つは、言語をツールとして使いこなせるようになるため、量と質を考えてハイクオリティに学ぶことです。この場合、数年以上の長い時間をかけて、語学力を鍛えていく感じになります。

2つ目は、使えるようには到底ならん気がするけど、なんか触れといて損はないかって感じで半年〜1年程度学ぶことです。

当時私が属していた言語学専修では、一般教養の語学(英語・第二外国語)とは別に、語学に分類される専門科目の単位を16単位習得することが卒業要件でした。

1科目(1言語)を半年受講すれば2単位ですので、1年通しで受講すれば4単位です。よって、単純に考えると、大抵の人は専門科目で4言語を履修することになります。

これは非常にメッセージ性がある卒業要件で、幅広く言語に触れることで、特定の言語を相対的に捉えることができ、例えば我々日本語話者にとって特異に感じられる言語事象も落ち着いて見る目を持ってほしいみたいな話を先生方がしていたようなおぼろげな記憶……。

この卒業要件もあって、私も大学〜大学院時代にいろいろな言語に触れました。

何の言語を履修したの

記憶があっていれば、以下のような遍歴だったかと思います。第二外国語は中国語だったので、英語と中国語は一般教養の科目で、それ以外は文学部の専門科目です。

  • 学部1年生→英語、中国語
  • 学部2年生→中国語、サンスクリット、ラテン語(落とした)
  • 学部3年生→モンゴル語、スワヒリ語、朝鮮語(前期のみ)
  • 学部4年生→インドネシア語
  • 修士1年生→エスペラント

ちょっとだけ意識していたのは、古典的な言語分類において別タイプに分類される言語を履修したり、なるべく地域がバラバラな言語を選んだりしていたということでしょうか……。

どう役に立ったの?

そんな感じで大抵の人類よりは多くの言語に触れてきた私ですが、上述したとおり「かじる」程度しか学んでいないので、今となってはほとんど忘れてしまっています。

「読め」とか「しゃべれ」とか言われても、ブロックゲームの「ジェンガ」がスワヒリ語であることとか、インドネシアのタバコはニコチン量がえげつなくてヘビースモーカー(インドネシア語の先生)でも1本で満足できるということしかほぼ覚えていません。笑

ただ、当時はある程度がんばって文法や単語を頭に入れていたので、文を作る仕組みや語、活用表などは一度一通り頭に入れたはずです。それらの経験は、「日本語を実際以上に特殊な言語だと扱ってしまうこと」を防いでくれたとは思います。

エスノセントリズム(ethnocentrism)というものがあり、「自文化中心主義」と訳されると記憶しているのですが、人はともすると自分が属している文化を特異なものとして見做しがちです。その色眼鏡を外してくれるのは、他の(言語)文化との相対化です。もちろん、相対的に見て日本語に固有・特異な特徴がないというわけではないと思いますが、特に学問の世界においては、自分を特異なものと思いたいという恣意性は極力排除されるのが望ましいと思います。その点、さまざまな言語をかじったことは、多少なりともその力となってくれたように思います。

いろいろやってみないとわからないこともありますし

そんなわけで、自分と異なるものごとを学ぶことは自分を顧みる上でも良いことなんじゃないかという話でした。

今回は他言語の話でしたが、これって言語に限らないことでもあるなと思います。

自分はまだまだ知らないことがたくさんあるということ、知らないことを知ることで、自分をより落ち着いて見ることができることを心に留めつつ、これからも知らないことを知っていきたいものです。

今回はこんな感じで終わります。ではでは。

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