京都大学 国語2019[一]解答例と解説

目次

総評

比較的論旨が明瞭で、京大にしては純粋な論説文に寄った文章でした(「にしては」とは、京大は随筆〜論考の間で、比較的情念的な文章が出ることの方が多いと思うからです)。その分比較的正統派な設問も多く、課題文の情報整理・要約といった力が問われます。込み入った観念的な議論についていく必要はなかったので、なんとか点を落とさないで通過したい大問とも言えます。

解答例と解説

問一

近代科学の実定的科学性の志向は、観念から経験という単純な態度の切り替わりではなく、混乱の集積である経験を疑い、純化しようとすることで成り立つと言えるから。

傍線部は「事態は遥かに複雑なのだ」であり、続く箇所で「それは、今述べたばかりの〈常識〉とは、むしろ逆方向を向いている」とありますので、〈常識〉とされている「単純(複雑の対義)な」理解ではなく、このような点で複雑な理解ができる、というようにまとめていきます。

前段落の内容から、〈常識〉である「単純な理解」は「観念から経験へ」という考え方です。この点は難しくないと思います。

一方、「複雑な理解」の中身もある程度触れておいた方がいいかと。「日常的な経験などは、ごちゃごちゃとした混乱の集積であるに過ぎず」、それらの観察は科学的知見にはつながりません。そこから生まれる「伝統的経験へのこの上ない不信感」こそが、実定的な科学の端緒となったということです(ここでは「日常的経験≒伝統的経験」かと)。

正直ここまででもいいと思いますが、一応次の段落から「(経験を)純化する」という内容を一言だけ盛り込んでいます。これは、実定的科学に至るまでの「事態の複雑さ」を説明するうえでは、ちょっと入れといたほうがいいんじゃないかと思ったからです。単純な「観念から経験へ」じゃないよ→複雑なこういうプロセスなんだよっていうのを言うために、「伝統的経験への不信感から出るプロセスなんだよ」とだけ言っても、「プロセス」の中身を説明できてない気がしまして。。。プロセスの複雑さを示すために、プロセスの中で実際に何をやってるのかを入れておきたく、「経験を純化する」とだけ簡単に入れておいた感じです。いかがでしょう?

部分点

〈近代科学の実定的科学性の志向〉は、〈観念から経験という〉〈単純な態度の切り替わりではなく〉、〈混乱の集積である経験を疑い〉、〈純化しようとすることで〉成り立つと言えるから。

「実定的」という言葉はあまり聞き慣れませんが、なんか今回の大問においてはなかなか便利に使えそうです。「ちゃんと定まってる」って感じがしますね。

「単純な態度の切り替わりではなく」は、「複雑なのだ」を説明するために入れています。別の形でもいろいろ書きようはあると思います。

問二

実験は、仮説の検証を行うために一定の目的意識のもとに条件を純化した現実を装置によって感覚受容させるという、緻密さ・数的正確さが確保された構築的・人工的な経験である点で、単なる経験と連続的なものであるとは言い難いから。

「実験は経験の延長じゃないよ」が傍線部なので、なぜそう言えるかと聞かれたら「実験はこういうものであるという点で、経験と連続的じゃないから」と答えている感じですね。

「AとBの違い」を説明する問題の場合、「Aは〜であるのに対して(〜であるが)、Bは〜である(こと・から)」と説明することが多いですが、今回は「違い」を説明するのではなく、「違うこと」を説明する問題です(びっみょ〜に違うんですが、わかりますでしょうか……)。ここでいうAを「実験」、Bを「(日常的な)経験」とすると、私の解答例はA「実験」ばかり説明していて、B「経験」は「単なる経験」としか説明していません。これだと「違い」は詳細にわかりませんが、「違うこと」はわかるということです。イメージ的に、今回は「違うこと・なぜ違うか」の説明が求められており、「どのように違うか・どのくらい違うか」が主眼ではないって感じでしょうか。

もちろん、「どのくらい違うか」を説明することで、「違うこと・なぜ違うか」の説明とすることもできますが、今回は「実験」が本文にとっても大切な要素のため、このような形をとりました。

書き方の話が長くなりましたが、内容の話をば。基本的には傍線部が含まれる段落の内容をまとめていきます。「道具と数」だけ、ちょっと解釈しました。「道具」は「(感覚装置の代替となる)装置」をはじめとするもので、「緻密さ」を担保するためのものかと思います。一方「数」について、当初私は「(道具を用いることで、緻密な条件で)反復回数が確保できること」なのかな?と思いまして、多分それもあるのかもしれないのですが、どっちかっていうと「(道具を用いることで)数値で結果を示すことができること」なのかもしれません。我々は「う〜んこの音は何Hz!」とは言えませんが、機械は言ってくれるってことです。これを「数的正確さ」としています。

部分点

実験は、〈仮説の検証を行うために〉〈一定の目的意識のもとに〉〈条件を純化した現実を〉〈装置によって感覚受容させる〉という、〈緻密さ・数的正確さが確保された〉〈構築的・人工的な経験である〉点で、〈単なる経験と連続的なものであるとは言い難い〉から。

「仮説の検証を行うために」は、「原基的構想がどの程度妥当かを」からとっています。それ以外は対応する箇所が見やすいとは思いますが、まさに要約問題という感じですね。この一段落をまとめなおす問題と言ってまさにそんな感じです。

文末表現としては、なぜ「延長ではない」と言えるのか、という問いに対して「〜という点で連続的なものとは言い難いから」と答えています。

私はざっくり頭の中で解答を組み上げる時、とりあえず文末がどんな感じになるかと、その修飾句をどういう繋ぎ言葉で繋げるかを考えることが多いな〜と思います。ちなみに今回でいえば「〜である点で」が繋ぎ言葉ということです。

問三

近代物理学は経験を単純化・抽象化したうえで構成された概念を基底としているが、寺田寅彦はそういった思考様式も備えたうえで日常生活の経験にも科学的検討を加えており、その著作には経験との繋がりを改めて愛惜するような印象があるということ。

傍線部(3)は、基本的に寺田寅彦の「日常の経験」に対する態度を表している箇所です。ただ、寺田寅彦の態度だけを説明するのではなく、今回の解答例の最初に書いたような、一般的な近代物理学の考え方についても書いた方がいいんじゃないかと思いました。その理由は以下の二点です。

①寺田寅彦は、物理学の態度を身につけたうえで「日常の経験」にも目を移しているから
傍線部後の「ただ、注意しよう。」以下の内容や、その後のトレサン伯爵との対比から、寺田寅彦の「日常の経験」に対する態度は、しっかりとした物理学的思考を前提としたものであるとわかります。

②「〈経験からの退却〉を惜しむ」の説明となるから
近代科学(物理学)が、経験を単純化・抽象化することは、まさに傍線部で「経験からの退却」とされていることです。それは実定的な科学の基盤として重要ですが、一方でいわゆる「人間味」のようなものが薄れていくのも事実です。寺田寅彦は、この両者の間を行き来し、筆者からすれば新しい見地を示していると言えます。

「改めて愛惜するような印象がある」は傍線部を自分で言い換えています。経験を単純化・抽象化する近代科学の(ともすれば)無味乾燥さの反動として、寺田は経験との繋がりを惜しみ、そちら側へも目を向けているという推測です。

部分点

〈近代物理学は経験を単純化・抽象化したうえで構成された概念を基底としている〉が、〈寺田寅彦は〈そういった思考様式も備えたうえで〉日常生活の経験にも科学的検討を加えており〉、〈その著作には経験との繋がりを改めて愛惜するような印象がある〉ということ。

最後の部分点の「その著作には」は、傍線部の前段落の内容を結構厳密めに捉えた結果です。「日常世界での経験に〈科学的検討〉を加えた一連のエッセイ」とされているので、「著作」としているということです。

問四

トレサン伯爵の電流に関する論は、物理学的言説であろうとしながらも、結局は日常的直観を基盤としてそのまま連続的な推論が行われる水準にとどまっているから。

割とカンタンな設問です。

問三で見ましたように、「経験からの退却」は近代物理学の基底を支える考え方で、それがなければ(実定的な)近代科学とは言えません。寺田寅彦は、「経験からの脱却」を土台とする近代物理学の考えもちゃんと身につけたうえで、「日常の経験」に視点を移していました。

一方でトレサン伯爵は、「あくまでも日常的水準での直観が基盤となり、その直観からそのまま連続的な推論がなされている」とされています。この点が解答の核となります。

部分点

〈トレサン伯爵の電流に関する論は〉、〈物理学的言説であろうとしながらも〉、〈結局は日常的直観を基盤として〉〈そのまま連続的な推論が行われる水準にとどまっている〉から。

「物理学的言説であろうとしながらも」は、やや重要度が下がる気がします。でも、「し損ない」を説明するうえではあった方がよいというのもそうだな〜と思います。「〜し損なう」のは、「〜しようとしたけどできない」ということだと思いますし。

問五

純化した経験から実定的な認識を得るという学問的物理学にも通じたうえで、日常生活の経験にも視点を戻して物を論じることで、物理学の世界と日常世界の中間にある多様なものを捉え、文化全体における自然科学の別側面を呈することもできるという可能性。

文系設問ですが、問一〜問四も踏まえて考えれば、めちゃむずというわけではないです。

傍線部前半の「その興味深い往復運動」は、寺田寅彦が行った「実定的な物理学」と「日常的な経験」の二方向の間を行き来することだと言えます(トレサン伯爵は「実定的な物理学」の態度が不足していたので、学問的に価値のあるポジショニングとは言えませんでした)。そのような往復運動には、どのような「可能性」があるのでしょうか。

最終段落の終盤において、「寺田物理学(=上述したような「往復運動」を伴う寺田寅彦の物理学)」は、「自然科学が文化全体の中でもちうる一つのオールタナティブな姿」を示唆していると述べています。これ以上の説明がないのでわかりにくいですが、ここでは「自然科学」も広い意味での「文化」の中に位置付けられていると思い、その中で「寺田物理学」は従来とは違った「自然科学」の位置付けを提示することができるかも、ということでしょうか。

寺田物理学は、かなり荒く言えば「実定的科学の視点を踏まえて、混沌とした日常経験を見る」ということです。抽象化・単純化された経験を見るのではなく、少し「人間寄り」(?)な点で、「自然科学」の幅を少し広げたような感じでしょうか。そこには、今までの自然科学とは違った(それゆえ純粋な自然科学とは言えない、という言い方もできますが)姿がそこに見えるかもね、という話かと思います。

部分点

〈純化した経験から実定的な認識を得るという〉〈学問的物理学にも通じたうえで〉、〈日常生活の経験にも視点を戻して物を論じる〉ことで、〈物理学の世界と日常世界の中間にある多様なものを捉え〉、〈文化全体における自然科学の別側面を呈することもできる〉という可能性。

「物理学の世界と日常世界の中間にある多様なもの」は、「恐らくは無数にある中間点」を言い換えています。

「自然科学の別側面」が実際のところどういう側面なのかは詳述されていませんので、「別の側面を提示する可能性がある」という書き方にならざるを得ないのかなと。。。

読解後のつれづれ

そういえば、課題文も比較的短めでしたね。情報密度が高い文章だったとも言えるのかもしれません。

設問解説中にも書きましたが、「実定的」のように、「あまり一般的でないけれどなんか使えそうな語」と課題文の中で出会うことがあります。漢字の意味、文脈等から概ねの意味を推測しておけば、便利に使える場合もありますので捉えていきましょう。

今回面白かった表現としては、傍線部(2)が含まれる段落の次の段落中にある「賑々しい経験世界」です。にぎにぎ。もちろん「賑やか」からきているわけですが、なんかオノマトペみも感じてしまいますね。「ぎちぎち」と近いような。全て母音が「i」であり、口腔が狭い母音であることから、「にぎにぎ」もちょっと詰まったような感覚がありますね。おにぎりにぎにぎとも言えますし。

とまぁ考えが流浪したところで。今回もお疲れ様でした!

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