京都大学 国語2019[三]解答例と解説

目次

総評

個人的には、文系設問の古文としてはそんなに難しくなかったんじゃねって思ってるんですがいかがでしょう……笑

おそらく歌論に類する文章でしょうし、比較的評論寄りと言えます。江戸時代の文章というのも比較的読みやすさを上げます。論旨も込み入ったものではないので、つまづきどころとしてはピンポイントでの語彙の訳出とかになるのでしょうか。

各設問では、「現代語訳」が求められているのか、はたまた別の箇所の説明が求められているのかは整理して進めた方が良さそうです。それによって多少答え方が変わってきます。内容的に取れそうな点を書き方で落とすのはもったいないですので気をつけましょう〜。

解答例と解説

問一

対象となる事物に対して純真無垢な捉え方をし、道理にとらわれず素直な心で深く考えたうえで言葉にする心。

傍線部は「おろかなる情」ですが、ここではあまりマイナスな意味で捉えられているわけではないという点は大丈夫でしょうか? 俊恵法師は歌について「おさなかれ(幼くあれ)」と言っており、この幼さに繋がっている「情」が「おろかなる情」であり、ここでは八割くらいポジティブに捉えられていると思います。八割くらい、というのは、幼いことによる「おろかさ」はここでは良く捉えられているけど、「おろか」であることは確かだからです。「無垢」は「無知」とも繋がり、「無知」は比較的「おろか」に近いですよね。本問の解答として盛り込む必要はないかと思いますが、その「(幼さと似た意味での)おろかさ」を効果的な技法として織り込めると、この本文において評価される歌となるのだと思われます。

また、傍線部(2)のさらに後となりますが、「ことわりはしらぬをさなきこころ」という記述もあり、これも「おろかなる情」と共通する内容っぽいです。これを「道理にとらわれない」としています。

部分点

〈対象となる事物に対して純真無垢な捉え方をし〉、〈道理にとらわれず〉〈素直な心で深く考えた〉うえで言葉にする心。

和歌が入る前にも「おろかなる」という言及があるので、「ふじのねに」の歌に必ずしも限定しなくてもいいのかな〜と思いました。ので、「対象となる事物に対して」と比較的一般的な書き方をしています。

「素直な心で深く考えた」は一段落目の「思ふ情ひとへにふかく」からとっています。

部分点にはしていませんが、文末表現はちょっと迷いどころです。問が「どういう『情』か」という聞き方をしているので、「〜という情」としてもいいとは思いますが、現代語に寄せて「心」にしてみました。

問二

富士山の雪がずっと消えないことを、そのまま「六月の十五日にも消えない富士山の白雪」と詠んだとすれば、並一通りの詠み手であるだろう

「それ」の指示対象としては「ふじの雪のとことはに消えぬ事」なんでしょうが、最初は「ふじのねに」の和歌中の「みな月の望にけぬればその夜ふりけり」という箇所のことを「それ」としているのかなと一瞬思いました(「みな月の望にけぬればその夜ふりけり」を「みな月の望にも消えぬふじのしら雪」と詠んでいたら、普通の歌にすぎないよね〜、となるので、文意は通ります)。ただ、そうすると設問指示において傍線部中の和歌の箇所も現代語訳すること、と指示されているのとぴったり合わない気がしました。指示対象も和歌の一部だとすると、そっちの訳はするのかしないのか?が明瞭に定まらないからです。そういうわけでちょっと違和感があり考え直して、地の文である「ふじの雪のとことはに消えぬ事」を入れた方がいいなと思い直しました。

それ以外はそんなに難しくない設問です。「望」はてっぺん→真ん中→十五日(十五夜のお月様は満月=望月です)。「かいなで」は「並一通りの」で訳出します。

部分点

〈富士山の雪がずっと消えないこと〉を、そのまま「〈六月の十五日にも〉〈消えない富士山の白雪〉」と〈詠んだとすれば〉、〈並一通りの詠み手であるだろう〉

「よみたらんには」の「ん(む)」は仮定の意味としてとっていますが、婉曲みたいにとってを「詠んだような場合には」とかにしてもいい具合に近い意味かと思います。

最後の「べし」は推量でとっています。まぁ〜当然で訳しても間違いではないと思います。

問三

富士山に降り積もる雪は、六月十五日の暑さが盛りの時に溶けてその夜にまた降るために、消えた時が見えないのだ

「さるからに」は「そういうわけで」のような意味で、指示対象は直前の「みな月の望のあつささかりのかぎりに消えて、その夜ふりけり」です。これは道理に合わない論理ですが、傍線部の後に傍線部内の内容を受けて「と、あらぬ事をいへる歌にて」と言ってくれているので、あり得ない論理をそのまま訳出すればOKです。

訳出の対応が取りにくい箇所は無いかと思いますので、わからない単語があれば調べておきましょう〜。

部分点

〈富士山に降り積もる雪〉は、〈六月十五日の〉〈暑さが盛りの時に溶けて〉〈その夜にまた降る〉ために、〈消えた時が見えないのだ〉

「富士山に降り積もる雪は」は、傍線部少し前の「この山にふりおける雪は」からとっていますが、同様に「消えしをりの見えぬ」のが何なのかという主語にもなっていますので、入れるのはマスト寄りかと思います。

「見えぬにこそ」の「こそ」ですが、「のだ」という断定に一応含めているつもりです。当該の「こそ」は文末を強めていると思い、文中に「こそ」を入れて訳出することはしませんでした。

問四

古今和歌集の複数の注釈書で、「望に消ぬれば」の歌があえてあり得ないことを詠んでいると捉えられることが見過ごされていること。

二行というのが厄介です。傍線部をちくちく訳出していては解答欄が到底足りません。

設問指示としては「筆者は何を問題視しているのか」ですので、当該箇所で筆者が批判していることの根っこを掬い取るように頑張りましょう。

傍線部では、のちの注釈書は「望に消ぬれば」の歌を「富士山の雪は本当に六月の十五日に消えて、その夜に降るものであるように理解して、殊更に取り上げずに説明している」と筆者が指摘しています。それだと、この歌は大人が詠んだとは思えないアホな歌になってしまいます。それでは歌の情趣は味わえないと。筆者は、この歌が「あえてあり得ないことを詠んでいる」と捉えられることに自覚的になって歌を味わうべき、と述べており、数々の注釈書はそれを見過している(と思われる)点を批判していると捉えられます。

部分点

〈古今和歌集の複数の注釈書で〉、〈「望に消ぬれば」の歌があえてあり得ないことを詠んでいると捉えられる〉ことが〈見過ごされている〉こと。

「あえてあり得ないことを詠んでいると捉えられる」はちょっと工夫した表現です。山部赤人が「望に消ぬれば」の歌を詠んだ時に、筆者が述べているような技巧性を本当に意図していたのかは実際のところわかりません。でも、「そう捉えられる」のは筆者にとって真理です。その隙間を縫って、「意図的に」ではなく「あえて」という言葉にしてみたのと、「と捉えられる」を加えました。

問五

理屈っぽいことを詠んだり、自身の自慢げな様子や利口さを誇示したりするのではなく、純真無垢な心で事物に深く向かい、道理にとらわれない幼い子供のような素直な考えで、人がしみじみと風情を感じるように詠むもの。

概ねは課題文の冒頭と終わり部分なんとかします。間に入る山部赤人の和歌はそれに沿った具体例ということですね。

冒頭では「をさなかれ」から、問一で答えたような内容が含まれます。

終わり部分は、「歌もて道々しき事いふは」以降からとります。「道々しい」は私は知りませんでした(すみません)が、「道理っぽいこと」から「理屈っぽいこと」としています。「いにしへよりよき歌には」以降は「自分のドヤ顔できることや利口っぽく誇る気持ちなどを全く言わない一方で、人がしみじみと感じ入るように詠むのが歌である」と述べています。この辺が核になります。

部分点

〈理屈っぽいことを詠んだり〉、〈自身の自慢げな様子や利口さを誇示したりするのではなく〉、〈純真無垢な心で事物に深く向かい〉、〈道理にとらわれない幼い子供のような素直な考え〉で、〈人がしみじみと風情を感じるように詠む〉もの。

要素の順番ですが、「〜するのではなく、〜するもの」とまとめています。冒頭部の内容(「純真無垢か心で〜素直な考えで」)は、「〜するもの」の方に織り込めるので、そっちに入れて組み直している感じです。

読解後のつれづれ

わからん古語単語が出てきた時にどうするかは、入試問題を解いていれば必ずぶつかる悩みです。個人的に、文脈と現代語から推測していくのはパズルみたいな気分があります。
今回で言えば、傍線部(2)の直前の「ふじの雪のとことはに消えぬ事」の「とことは」でう〜むとやりました。文脈からして、多分「ずっと消えない」ってことなんだろうな〜と思った後に、「とこしえ(常)」の「とこ」なんかな〜と、「とわ(永遠)」なんかな〜と思いました。合体して「とことは」という具合になりそうで、まぁ多分そうだろうと推測の程度を上げられます。

結局こういう推測ができるのにも、現代語の語彙量が物を言う場合がほとんどです。知らん語が出てきたら積極的にググってみましょう。いざ本番になって、記述を組み立てる時にも役立つ時が来るかもしれません。

それでは今回はこんなもんです。お疲れ様でした!

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