京都大学 国語2020[一]解答例と解説

目次

総評

かなりハードめな大問でした。題材はわかりにくいものではないのですが、ところどころ急に観念的な論じ方になるので、いきなりついて行きにくくなり、でも大抵その辺が設問の解答根拠になるという感じで……。

]もちろん、理解が追いつかないところを一旦その時点の理解で置いておいて読み進めるというのは解答戦略上かなり必要なことです。が、一通り読んだ後に「やっぱりここ分からんと答えられんわ」という判断をし、例えばその一段落の理解度をなんとか上げるのに時間を使うということも、やはり必要な判断です。その頭の切り替えも、本番を意識するのであれば練習しておきたいところですね……!

解答例と解説

問一

人は、臆病さゆえに体験を客観的に聞こえるように語り、自分の体験を聞こえよくしようと努めるが、その臆病さ自体も、臆病さを隠すために努力していることも気づかれたくはないということ。

本大問中では比較的マシな設問です。ただ、明確な解答素材となる箇所はほとんどなく、前の文脈から解釈して解きほぐしていくしかない感じがしました。だって、傍線部自体が「それと今一つ、」で始まってて、明らかに付言っぽい感じですもん。

「勇敢だと思う、思わせようと努める心」には、「臆病なのではないかと危惧」が潜んでいます。「自分はすごい、すごいって他の人にも思わせよう」という心の背景には、「自分がすごくなかったらどうしよう、すごいと思ってもらえなかったらどうしよう」という心があるということです。でも、すごいと思わせるためには、その臆病さを見抜かれてはいけません。そして、「その臆病さを見抜かれないように頑張っている心、頑張っていること」も見抜かれてはいけない、ということですね。

その前をどこまで入れるかですが、今回は「体験談の語り」の特性までは入れました。第二段落、第三段落の内容から、人が体験談を語る時、「話の客観化に心を砕く」、「本当らしく語る」のは、そうすることで話者にとって都合の良い語りを「本物」として信じてほしいからです。それを含めて第一段落では「フィクション」と読んでいます。「(話者の意図というフィルターを通した)客観化」が「フィクション」と呼ばれるのは不思議な感じですが、「本物でなくする」という意味ではフィクションですよね。

そうすると、「体験談」は「本当の体験を出発点とする言葉」なのに、受け手からすると「本当」を受け取れないものなのでは?という気持ちに、リアリズム小説は応えていくことになります。これが問四に繋がっていきます。

部分点

〈人は、臆病さゆえに体験を客観的に聞こえるように語り〉、〈自分の体験を聞こえよくしようと努める〉が、〈その臆病さ自体〉も、〈臆病さを隠すために努力していること〉も気づかれたくはないということ。

「自分の体験を聞こえよくしようと努める」は、間をスムーズに繋ぐために入れていますが、いろんな表現で許容されると思います。

問二

どの人間にも共通して指摘されたくない事実があるため、発言で他者を傷つけたければ、自分が指摘されたくないと感じる点を認識し、相手の弱点として言い立てればよいということ。

傍線部が含まれる段落中で一通り解答は作れそうです。傍線部の後、人間には「共有の過敏な粘膜がある」とされています。前段落の受け方からして、この「共有の過敏な粘膜」とは、「他者によく思われたいという気持ち(もしくは臆病さ)を持っていること、また、持っていることを隠したいと思っていること(=人間の真実)」ですが、この(比較的)具体的な内容をそのまま解答に入れるかは難しいところです。三行なので入らないかもしれない。一旦保留。

結びつき方から、傍線部(2)の三文前も大切な箇所になります。「自分の弱点のつらさを知っているからこそ、相手の弱点を識別できる」とは、「人間に共有の過敏な粘膜」をつつかれたらみんなつらいから、自分がつらいところが相手もつらくさせられるところだと分かるよねってことですね。「自分が嫌なことは人にしない」とはよく言いますが、まさに「人に嫌がらせをしたければ自分が嫌なことをしろ」です。笑

この内容を一通り盛り込むので私は文字数を食ってしまったので、ここで言う「共有の過敏な粘膜」が「他者によく思われたいという気持ち・臆病さを持っていること、また、持っていることを隠したいと思っていること」であるという内容(=少し前に言及した内容)は含めませんでした。

部分点

〈どの人間にも共通して指摘されたくない事実がある〉ため、〈発言で他者を傷つけたければ〉、〈自分が指摘されたくないと感じる点を認識し〉、〈相手の弱点として言い立てればよい〉ということ。

「発言で他者を傷つけたければ」「相手の弱点として言い立てればよい」は、説明が繋がるように傍線部を自分で言い換えています。こういうのあるから大変ですよね〜まったく。

問三

創作物内で他者が真実を指摘されたり直視したりしているのを見て人が他者をあわれむのは、人間があわれなものだということを自認しようとしているわけではなく、あわれな自己の認識を誤魔化したいからであるということ。

こちらも、傍線部を含む一段落で大体完結します。複数段落から解答素材を集めてくるタイプの問題より、こういう感じで一段落をしっかり解読して言葉にし直す問題の方が、個人的にはエネルギーを使います。笑

傍線部より、「この種の興味」は「矛盾している」訳ですが、「(この種の興味=)人間が自分たちの弱点について書き、それを読みたいと思うこと」はどう「矛盾している」のでしょうか。

アウグスチヌスによると、人は「他者をあわれむことを欲しているが、自分があわれであることは欲しない」わけです(これはわかる)。つまり、小説や劇において、「他者があわれであること」を見るのは、「(自分を含む可能性がある)人間はあわれだなぁ」という気持ちになるためではなく、「(自分ではない)この他者はあわれだなぁ」と思うためということです。
そしてそれは何のためかというと、「人間は本来あわれであるのに」、「あわれな自己を直視するのを避けるため」なわけです。つまり、自分があわれであることを忘れるために、あわれな他人を観に行くことになります。よって、「あわれを見たくないから、あわれを観に行く」という構造が見え、「矛盾」と言える感じでしょうか。

部分点

〈創作物内で他者が真実を指摘されたり直視したりしているのを見て〉〈人が他者をあわれむ〉のは、〈人間があわれなものだということを自認しようとしているわけではなく〉、〈あわれな自己の認識を誤魔化したいから〉であるということ。

小説と劇をまとめて「創作物」としています。
上述した内容をうまく含めるのが難しいですね……なんかもっといい書き方できないかしら。

問四

リアリズム小説は、体験談では見えない人間の真実を見通しよく示す役割を果たしたかと思えたが、その真実もあくまで創作されたものであり、人は予め作られた真実味のある結末の享受に飽き足らなかったから。

傍線部内の「真実は小説でなければ語り得ない」という内容、私が前々から考えていたこととかなり重なっていて「あ〜これこれ、やられた〜!」って思いました。笑 やっぱり私が考えるようなことは大抵誰かが考えているものよ。

さて、問一の解説にもさわりを書きましたが、「真実は小説でなければ語り得ない」とは、「体験談では真実は語り得ない」ということから出てきます。体験談は、話者の臆病さによる「フィクション化(客観化を含む)」が挟まります。じゃあ、「話者の本当の経験を話者が語る」という構造を脱して、「架空の経験を、経験者(登場人物)とは別の存在である筆者が語る」ようにすれば、いっそそっちの方が「より真実である」と言えるんじゃね?という発想になります。語る内容(架空の経験)の語り方がどうであっても、語る人(筆者)には利害がないからです。そうすることで、フィルターが挟まらない経験を描き出せ、「人間の真実」をあらわにすることができるんじゃねっていう試みが「リアリズム小説」です。よって、「真実は小説でなければ語り得ないという信念」が生まれるわけですね。

この試みにも成果はあったと言われています。「人生の分厚い雑多な層を透視するレントゲン光線のような役割」だそうです(わかるようなわからんような)。

でも、設問指示に「このような信念が失われたのはなぜか」とあります。あれ、失われちゃったの!?(私は初読ではあんまり分かれていませんでした。この後の本文がパッとはよくわかんなかったので……) じゃあ、リアリズム小説から人間の真実を明らかにする試みがどうダメだったのかを考えないといけませんね。

傍線部(5)の前の段落に、ダメだったっぽいことが比喩的に書かれています。「リアリズムの小説は、〜この生の言葉の原野に較べれば、庭園のようなものであった」とあり、前の段落の内容をバキバキ噛み砕いて言えば、「(体験談を含む)人々の人生の外貌を形作るガチの言葉群に比べたら、やっぱりお行儀よく作られたものにすぎない」って感じでしょうか……。よって、傍線部(4)の後の段落に戻りますが、小説内で人(筆者)によって定められた結末に進んでいくことを「人間の真実」としていいのか?とトルストイも悩み、「リアリズムの行き着いた場所があきたらなかった」としているのではないでしょうか。ここまでをリアリズムの信念は失われてしまった理由としてみました。

部分点

〈リアリズム小説は、体験談では見えない人間の真実を見通しよく示す役割を果たした〉かと思えたが、〈その真実もあくまで創作されたもの〉であり、〈人は予め作られた真実味のある〉〈結末の享受に飽き足らなかった〉から。

「見通しよく示す」は「レントゲン光線」の比喩からの解釈です。リアリズム小説の、成果があったと思われる箇所です。

「その真実もあくまで創作されたもの」は、「庭園のようなもの」の解釈です。これもここ以外に詳しい説明はなく、自分で言い換えています。いや〜。
「真実味のある」は、「真実ではない(かもしれない)」を含意します。100%真実であれば「真実っぽい」とは言えませんし。

問五

人生の外貌を形づくっているのは人の口から出る言葉であり、それらの言葉から人の世に隠された意味を明らかにしたいという意思を人は捨てきれない。そのために、特定の人々は言葉を理解する努力を続け、告白といった別の言葉の在り方についても考えを深めていくだろうと思われるから。

し、しんど〜! 大変ですね。

直接の理由となる箇所は、傍線部(5)の二つ前の段落、「人の世は〜意味を隠し持っている。〜それをあきらかにしたいという意思は捨てきれない」です。で、「人生の外貌を形づくっている大きな要素は、人の口から出る言葉・言葉」ですので、「言葉」から、「人の世が隠し持つ意味」をあきらかにしたいという思いは捨てきれないということです。

しかし、庭園のようなリアリズムの小説では限界もあると筆者は思っているんじゃないかと思います。そこで出てくるのが「体験談と告白という二つの観念の識別、把握のし方」です。ちょっと考えてみますが、「体験談」は本文冒頭から述べられている通り、真実を語り得ないと捉えられます(だからリアリズム小説に真実の語りを託したのでした)。一方で「告白」について、これは本文で述べられていないので私の推測でしかないですが、ここでは「体験談」の「フィクション化」を排除した姿として述べられているんじゃないかなと。「人間の真実」を述べる言葉を掴むために、そういう言葉の取り出し方が可能なのか?について考えないといけないんじゃねって言って、筆者はこの課題文を閉じているんじゃないかな〜と思うわけです。

「言葉・言葉」という表現は、「体験談、小説などを含む数多の言葉」という意味かと思いますが、そういった数多の言葉が「人間の人生の外貌」を形づくっている以上、そこから「人間の真実」に掘り込んでいくしかありません。そのために、「或る種の人々」は、リアリズム小説や体験談、そして告白といった言葉の在り方の理解や、その内容の理解にいどみ続けるということなのかな〜と。。。

部分点

〈人生の外貌を形づくっているのは人の口から出る言葉であり〉、それらの言葉から〈人の世に隠された意味〉を〈明らかにしたいという意思を人は捨てきれない〉。そのために、〈特定の人々は〉〈言葉を理解する努力を続け〉、〈告白といった別の言葉の在り方についても考えを深めていく〉だろうと思われるから。

「特定の人々」は、「ある種の人々」の言い換えですが、これがどういう人々なのかは明瞭ではありません。おそらく、言葉を扱うことに思いや考えがある人々という感じでしょう。みんながみんなこんなこと考えてるわけじゃないですからね。

読解後のつれづれ

傍線部(2)のすぐ後に「共有の過敏な粘膜」という表現があり、設問解説でも触れましたが、この少し後に同じものを指しているであろう「人間に共有な過敏な粘膜」という表現があります。「共有過敏な粘膜」と「共有過敏な粘膜」。。。細けえ〜話ですが、こんな風に連体修飾するときに「の」が付くのか「な」が付くのかについての統計言語学の論文を昔々に書庫で読んだなぁ〜という思い出が去来しました。笑

また、こちらも設問解説でも触れましたが、「真実は小説でなければ語り得ない」というテーマについては、まだちょっと思うところがあるのでそのうち記事にもしたいな〜とは思います。私たちは、フィクションに対して現実よりも「共感する」ことがあるんじゃねっていう感じの話です。たぶん。

さてさて、大変でした。今回もお疲れ様でした!

この年の他の大問の解説

役に立ったらお友達にシェアしてね
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次