京都大学 国語2021[一]解答例と解説

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総評

難問奇問というよりは、比較的正統派な理解と解答構築力が求められた大問でした。それぞれの問題について、ある程度解答方針の見当は付けられたのではないでしょうか。こういう大問では、いかに周辺的な内容を解答字数に対して効率よく盛り込めるかが勝負です。本文の言葉をそのまま使うのではなく、理解した内容を別の熟語に置き換えて盛り込むなど、解答欄の消費量に対する情報量を上げ、ベターとなる部分点が充てられていそうな内容を盛り込めるかで点数が大きく開きそうです。がんばって解答の完成度を上げていきましょう〜!

解答例と解説

問一

山崎の言葉は、他者の犠牲や友情を差し置いて無邪気に自分のことで心がいっぱいになっていた自分の程度をありありと自覚させ、その後の生き方を省みる契機となったから。

「忘れ得ぬ言葉」は本課題文の題でもありますので、問一ながら割と本文の核心に近い問題となります。そのため、傍線部の前後もそうですが、筆者のそれ以降の生き方にも影響をもたらしたという点を入れたいです。

「忘れ得ぬ言葉」となった理由は、当該の山崎の言葉が ①どのように筆者に強い印象をもたらしたか と、②どのように筆者の中に残り続けているか という点から説明できそうです。

①は、「自分の矮小さを自覚させた(点で強い印象)」という方向で、「程度をありありと自覚させた」としてみました。「人間としての程度」と書きたかったのですが、字数がちょっとキツイかなと思って「人間としての」を削りました。「人間としての程度」とすると、ちょっとぞんざいな言い方になりますよね。そのぞんざいさが、この解答において、筆者が筆者自身に向ける印象をちょっとうまく表せているかなと。ちょっとしたこだわりです。

②は、「その後の生き方を省みる契機」としています。実際、この言葉によって筆者は「実在の世間」に触れることができたと感じており、それは「生きる力を与えてくれるかのようであった」としています。自分は手触りのある他者との関係の中で生きていると自認し、それ以降の他者との関係を捉え直すきっかけになったという点は言えるかと思います。

部分点

〈山崎の言葉〉は、〈他者の犠牲や友情を差し置いて〉〈無邪気に自分のことで心がいっぱいになっていた〉〈自分の程度をありありと自覚〉させ、〈その後の生き方を省みる契機となった〉から。

「山崎の言葉」は、傍線部中の「それ」の指示対象なので明示しておいた方がいいでしょう。「他者の犠牲や友情を差し置いて」は、筆者の「無邪気さ」を強調するものなので、なくても致命的ではないですが、あった方が良いのは確かかと思います。

問二

自分のために犠牲を払ってくれた他者に対して無邪気に接し、配慮する意識を持てなかったこと自体が、筆者自身の人間的欠陥のように感じられてきたということ。

前半と後半に分けて、①「その自分の『罪のない』ことそれ自身」と、②「罪あることと映って来た」をそれぞれ説明しましょう。

①「『罪のない』ことそれ自身」は、自分のために犠牲を払ってくれた山崎に対して、筆者が罪の意識、申し訳ないという意識を持てていなかったことを指します。これはそんなに難しくないと思います。

②「罪あることと映って来た」はやや比喩的です。「罪の意識がないってことそれ自体が罪だと思えてきた」ってことですね。今回の解答例ではそれを比較的そのまま自分の言葉で補う形をとっています。「人間的欠陥」は結構強めの言葉ですが、「罪」を言い換えるうえでは悪くないのではないかと……(どうでしょう?)。

部分点

〈自分のために犠牲を払ってくれた他者〉に対して〈無邪気に接し〉、〈配慮する意識を持てなかったこと〉自体が、〈筆者自身の人間的欠陥のように感じられてきた〉ということ。

「無邪気に接し」はマスト要素ではないかな〜と思いましたが、筆者のそれまでの罪性を強めるのであった方がいいんじゃねって思います。

細かいですが、末尾は「感じられてきた」などでまとめたいです。というのも、傍線部が「映って来た」なので、「筆者にとってこんな感じに見えてきた」という形を保った方がいいと思うからです。客観的な叙述っぽくしないということです。

問三

筆者は、社会での物質的・精神的な苦労を知らないというわけではなかったが、社会において自己は他者との関係の中にあることを実感できていなかったと気づいたということ。

「以前に言われたとは全く別の意味で」とあるので、「以前に言われた意味はこんな感じで、その意味では世間知らずじゃなかったけど、それとは違うこんな感じの意味では世間知らずだった」という骨子を取るのが良さそうです。つまり、①「以前に言われた意味」と②「それと別の意味」の両方を説明する必要があります。

①はそんなに難しくありません。一人っ子だった筆者は、周囲の勝手な推測から「苦労してなさそう」という意味で「世間知らず」と言われたことがあったようです。ただ、「物質的にも精神的にもいろいろな種類の苦痛を嘗めて」、「世間」の何たるかを知っているつもりだった筆者は、その言葉を痛痒に感じなかったということですね。

一方、②は山崎の言葉によって触れた「世間」に関する部分です。ちょっとここから理解が追いつきにくいですが、筆者は山崎の言葉によって、「本当の意味での『世間』に触れることが出来た」と言っています。「本当の意味での『世間』」とは、「山崎の友情が私に実感と」なり、「他の『人間』に触れ、彼とのつながりのなかで自分というものを見る」ことによるものであり、「筆者にとって実感できる・実在性のある他者との関係」のような理解ができると思います。ここでいう「実在性のある他者」とはもちろん山崎です。山崎の存在と言葉が、自分がそれまで意識していなかった自分の別の側面(矮小な自分という自覚していなかった側面)を照らし出し、それと同時に山崎の強烈な実在性を筆者にもたらしました(これは問五にも繋がります)。そのような「他者との関係」こそ「本当の意味での『世間』」であり、筆者はそれを知らなかったということです。

部分点

筆者は、〈社会での物質的・精神的な苦労〉を〈知らないというわけではなかった〉が、〈社会において自己は他者との関係の中にある〉ことを〈実感できていなかった〉と〈気づいた〉ということ。

「知らないというわけではなかった」は割と広くどんな表現でも許容できると思います。①の意味で「世間知らずではなかった」ということが書けていればOKです。

今回の解答例では「実感できていなかった」に結構詰め込んでいます。「実在として実感のある他者との関係を持てていなかった」を、「他者との関係を実感できていなかった」としているという感じです。割と組み換えてしまっていますが、解説で書いたような内容が取れていれば良いかと。

最後の「気づいた」は、傍線部の「知った」の言い換えです。こういうところでビミョーに減点されても困りますので、ちょっと気をつけましょう〜。

問四

書物の言葉は反芻するうちに筆者の存在感が薄れ、言葉の意味内容だけが定着するが、人間の口から出た言葉は語った人間の独立した実在性とともにやって来、自分の内部でその人間との関係を築いていくことになるから。

こちらも解答の骨子を作るのはそんなに難しくなさそうです。傍線部末尾が「全く別である」ですので、「書物から来た言葉はこうであるが、(それと違って)人の口から来た言葉はこうであるから」となります。それぞれ見ていきましょう。

「書物から来た言葉」は「繰返し想起され反芻されているうちに、(中略)筆者のマークがだんだん薄れてくる」とあります。そうして筆者の存在感が薄れ、「言葉の抽象的な意味だけが自分のうちに定着して、(中略)自分のうちへ紛れ込んでしまう」ということです。

一方、「言葉が生き身の人間の口から自分に語られた場合」はどうでしょうか。「それを発した人間と一体になって自分のうちへ入ってくる」「独立した他の人間が(中略)実在性を持って自分のうちに定着し、自分とつながりながら自分の一部になる」。そして、「その言葉を反芻するたびに、我々は我々の内部でその彼の存在の内部へ探り入り、彼を解読することに」なります。発想としてはちょっとキモいですね。笑 でも気持ちはわかる。

ざっくり言うと、書物の言葉と人の口からの言葉では、発信者(筆者・話者)の実在感・存在感がどのくらい残りやすいかが違うという点と、「忘れ得ぬ言葉」になった言葉の話者は、実在感を持って受け手の中に残り、その後もその言葉の反芻によってその話者との関係を続けていかざるを得ないという点が違います。その2点の違いが内容として含められていればかなりいい感じです。

部分点

〈書物の言葉〉は〈反芻するうちに筆者の存在感が薄れ〉、〈言葉の意味内容だけが定着する〉が、〈人間の口から出た言葉〉は〈語った人間の独立した実在性とともにやって来〉、〈自分の内部でその人間との関係を築いていくことになる〉から。

「書物の言葉」「人間の口から出た言葉」は主語(主題)になる箇所なので、そんなに内容が大きな部分点ではありません。それだけが書けていても、それ以外の内容が的外れなら点にはならないかと……悪しからず。

問五

忘れ得ぬ言葉とともに自己の中にやって来た他者との関係は、その言葉を自己の中で反芻することで他者への理解を深めていくという形で、現実の人間の生死と独立に実在性の程度を強め、生きる力を与えてくれるものだから。 

傍線部は、「そういう人間関係」に係る修飾節ですので、「そういう人間関係」を詳しく説明している箇所になります。「そういう人間関係」は、傍線部の前の一文「彼と彼の言葉を思い出す毎に、〜彼を解読しているようでもある」という関係です。これがどうして「生きているとか死んでいるとかいう区別を越え」ているのでしょうか。

私も初読で読み飛ばしていたのですが(ダメじゃん)、先程の一文中に、「もはや何も答えない彼という『人間』」という記述があります。「もはや何も答えない」は明言ではありませんが、おそらく山崎は(この文章の執筆時点で)既に亡くなっているということなのかなと。。。しかし、山崎という存在は、彼の「忘れ得ぬ言葉」とともに筆者の中に在り、筆者はその言葉を反芻するごとに、山崎という存在を解読します。そうすることで、筆者にとって山崎との関係は「現実よりも一層実在的に感ぜられる」ということですね。

つまり、忘れ得ぬ言葉の反芻によってその人の実在感は(現実・現在の生死にかかわらず)自分の中で強めていけるからこそ、「生死の区別を越えた」と言えます。

さらに、課題文末尾で「本当の人間関係」との結びつきが言及されている「縁」にも触れておきたいです。傍線部(3)が含まれる段落にて、「縁」という言葉は登場しています。こちらでいう「縁」は、結局筆者と山崎との関係に現れているものなのですが、自分に何らかの実感をもたらす他者(およびあらゆるもの)との繋がり、それも筆者にとって実在感のある他者(=「世間」)との繋がりです。そしてそれは、「生きる力を与えてくれるかのようであった」とのことですので、「本当の人間関係」とは、「現実とは独立に他者との関係の実在感を深めていく」ことができる中で、「生きる力を与えてくれる」ものだというところまで含めた方がいい気がしました。

部分点

〈忘れ得ぬ言葉とともに〉〈自己の中にやって来た他者との関係〉は、〈その言葉を自己の中で反芻することで〉〈他者への理解を深めていく〉という形で、〈現実の人間の生死と独立に〉〈実在性の程度を強め〉、〈生きる力を与えてくれる〉ものだから。

核となる部分点は「自己の中にやって来た他者との関係」「現実の人間の生死と独立に」「実在性の程度を強め」の三つです。それ以外の部分点は、それらを修飾する形で付随します。「生きる力を与えてくれる」は「本当の人間関係」からすると本質的にも思えますが、問題は「『本当の人間関係』について、『生きているとか死んでいるとかいう区別を越えた』のように言われるのはなぜか、説明せよ」です。「『本当の人間関係』とは何か、説明せよ」ではないのです。よって、この問いへの答えとしては、生死と独立に実在性の程度を強められるものだから」の方に重きを置く方が良いと思います。何なら「生きる力を与えてくれる」はなくても耐えそうかなとさえ思いました。が、「『本当の人間関係』について、」とあるので、「本当の人間関係」と結びつきが強い「縁」→「生きる力を与えてくれる」もあってもいいかなと思い直し、入れました。いろいろ考えました。笑

読解後のつれづれ

山崎について述べている第一段落の「晴れやかな落ち着きを感じさせるような人間」という表現が味があるな〜と思いました。すげ〜印象良い人なんだなというパッとしたイメージを筆者と読者が共有できます。こういう表現を使えるように私もなりたい。

そして筆者にとっての「忘れ得ぬ言葉」である「君も随分おぼっちゃんだなァ」について。この「なァ」の「ァ」だけがカタカナになってるの、なんか「明治〜大正って感じ」しません!? 私だけ? なんか明治の文豪の文章に多い気がしており……賛否お待ちしてます。

最後に、少し戻って筆者の入院前後についてですが、六月に入院して、半月程して退院したところ、「そろそろ始まる夏休み」と言っていますね。つまり早くて6月半ば、遅くとも7月初めには「そろそろ夏休み」です。私もかれこれ数年前までは京都大学の学生であったのですが、「伝統的」な先生は「祇園祭が始まったら授業は終いじゃ」みたいなノリでした(厳密には、祇園祭は7/1から始まります。メインイベントである宵山や山鉾巡行は7月半ば〜下旬ですが)。もちろんそこまで「伝統的」な先生ばかりではありませんでしたが、そういうおおらかな空気はとても愉快だったな〜と思い出します。

思い出語りが少し出たところで。今回もお疲れ様でした!

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