京都大学 国語2021[四]解答例と解説

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総評

和歌についてというよりは、和歌もとい「定型」という枠組みについての文章でした。

難易度としては京大理系国語に相応な感じ。やや(3)は難しめですが、そんなに捻った問題ではありません。ただ、理系の人にとってはとっつきにくい題材でもあったのかもしれません。

とはいえ、筆者の視点は比較的理性的で、心象や表現の込み入った話をする必要はなく、筆者が述べている内容をしっかり噛み砕いて理解し、言葉に組み直せばそこそこ点がもらえるはずです。その意味で、取れる人は取れるしヤだった人は取れないという差が大きくつきそうな問題でもありました。点欲しかったら……ちゃんと解こう!

解答例と解説

問一

二拍差の長句と短句が短・長・短・長・長と続く短歌の特殊な音韻律は、日常語の乱雑で即興的なリズムから抽出できると思い難く、人工の約束という側面を必然的に持つと思われること。

設問の問われ方は、「傍線部とはどういうことか」や「なぜか」ではなく、「傍線部のように筆者が考える根拠は何か」です。この点留意すると、少し記述を具体に寄せてもいい気がします。というのも、「どういうことか」を説明する場合、それを組み立てるのは私たちの頭の中であり、その抽象度は自在で良いので抽象寄りにした方が広範な説明となり点がもらえやすいですが、「根拠は何か」となると、筆者の判断の由来となる「(筆者にとっての)事実」を取り出すことになるので、筆者が具体な根拠を基に考えを展開しているのであれば、その具体をなるたけそのまま取り出す方が態度として正しそうな気がするからです。

ただ、具体的根拠を逐一取り出していたら解答欄が足りません。よって、解答に際してはある程度まとめる(=抽象化する、もしくは取捨する)ことが必要です。

端的には、短歌の音韻律は「特殊なかたち、組み合わせ(第四段落)」を持っており、日常語の即興的なリズムから抽出されるとは思い難いこと、みたいな感じになりそうです。

でもこれだと、「どういうことか(傍線部の言い換え)」になってない?って私も思いました。よってもう少し進めて、「詩型(定型)は、人工的な約束(不自然な規約)によって成り立っていると(筆者にとって)思われること」というところまで含めています。これは第一段落もしくは、大段落(一行空き)が切れた後の冒頭からです。

大段落の切れ目がなんでここにあるのかがちょっと難しいですね。「以上の意味で」とあり、ここまでの内容をまとめていますので、接続性は比較的強めです。筆者のみぞ知るのかもしれない。

でもこれ厳密に言えば、まだ「どういうことか」から離れられているわけではありません。書き方をちょっと変えただけで、「日常語から抽出しがたい」と「人工的な約束がある」は、そこそこ被った内容(「つまり」で言い換えられる内容)を別の見方から言っているだけなので。

でも本文内容からはここまでしか言えないかな〜とも思います。言い方(見方)を変えるというのは表面的ではありますが、筆者がそれまでなので、我々もそうするより他ないって感じです。筆者にとって「カレーは風味豊かだと思われること」を根拠にして、筆者は「カレーが美味であること」を述べているんじゃねという説明をしている感じです。わかりやすいようなわかりにくいような。

部分点

〈二拍差の長句と短句〉が〈短・長・短・長・長と続く〉〈短歌の特殊な音韻律〉は、〈日常語の乱雑で即興的なリズムから抽出できると思い難く〉、〈人工の約束という側面を必然的に持つ〉と思われること。

「二拍差の長句と短句」「短・長・短・長・長と続く」は、「短歌の特殊な音韻律」の具体的記述です。私としてはこれらが「短歌の特殊な音韻律」を最も象徴しているかなと思ってここを取り出しました。具体的な記述を含めていいんじゃねっていうのは、設問解説でお伝えした通りです。

「人工の約束」は、「不自然な規約」も同義です。これは飛ばしてしまっても丸ごとバツにはならないかなと思います。

問二

定型詩が、日常世界を非日常的世界へと昇華させるうえで、日常語の自然なリズムから抽出される内容を定型の枠組みに強引に接続するという大変な作業を詩人に求めるのは、いつの時代も変わらないと思われるから。

傍線部が含まれる段落の二つ後の段落冒頭、「古代においても、〜、むつかしさを抱えていたとみるべきではないでしょうか」が直接の解答箇所となります。その「むつかしさ」は何かというと、定型詩作は日常の事象(世界のささやき)を出発点とするものの、それが筆者にとっての「叫び」となり、定型という枠組みに煮詰め捩じ込めることで初めて形になるという、タフなプロセスをそこに含んでいるということです。

「定型」は、日常の言葉とは異なる、不自然なものです。その不自然さが、「非日常」として、詩の表現の効果をもたらします。詩は日常の言葉を出発点としつつも、「変な」表現類型だからこそ、読者に「おっ?」と思わせることができるのです。筆者はそれを、「非日常的な詩の世界を支えるバネ仕掛のワク」としています。

その効果を得るために、詩人は日常の言葉を「定型」というワクに無理くり収めなければなりません。「変じゃない」日常語を「変な」定型にぐりぐりねじ込んだり、言葉を取っ替えすげ替え収まらないか腐心したり、時に大胆に省略したり。それは結構大変で、昔の言葉でも今の言葉でも、それは変わらないよねってことですね。言葉は昔と今とで違いますが、なんでその難しさは変わらないのかというと、昔の言葉であっても、結局定型というワクは日常語からは抽出できないものだ(と筆者は考えている)からです。定型の枠組みは、確かに昔にできたものではありますが、だからと言って昔の言葉に馴染むものではない(不自然なものである)から、今も昔も変わらないって感じです。

部分点

〈定型詩が、〈日常世界を非日常的世界へと昇華させる〉うえで、〈日常語の自然なリズムから抽出される内容〉を〈定型の枠組みに強引に接続するという〉大変な作業を詩人に求める〉のは、〈いつの時代も変わらない〉と思われるから。

「いつの時代も変わらない」が最も大事かなと思います。書き方はいろいろあってもいいと思います。「日常世界を非日常に昇華させる」は、詩作という営み自身の説明として入れていますが、なくても致命的ではないかもしれません。

問三

斎藤茂吉は詩作において、古今東西の多岐にわたる表現までをも真摯に検討し、詩歌に込める内容と心象を歌い上げることと、定型の枠に厳密に従うことの両方に最大限の努力をしているということ。

ちょとむずです。直接の考えポイントは、傍線部から斎藤茂吉の歌を挟んで前、「ある表現内容を、この厳密な定型の約束のもとに表明するために、古今東西に語を求める態度」です。端的に言えば、斎藤茂吉はこの態度を持っていたってことです。この態度を分解する形で考えてみましょう。

「ある表現内容」とは、叙述の内容だけでなく、読み手の心境的なものも含むと捉えます。それは、斎藤茂吉の歌で「国のさかひをついに越えにき」に表れている(と筆者が述べている)「沈痛なひびき」です。どう「沈痛」かわかりますでしょうか? 私の推測ですが、「国のさかひをつひに越へにき」というように昔の言葉にすることで、「越へにき(越えてしまった)」によって今まで歌われてきた和歌群の情景を間接的な引っ張り出すことができる感じなんじゃないかなと思います。和歌で越えるといえば……そう!逢坂の関ですね!(?) 逢坂の関は基本的に別れの境界です。そこには悲しみ、ここでいう沈痛さが伴います。「国のさかひをつひに越へにき」とすることで、この沈痛さを間接的に引用していると筆者は捉えているのかもしれません(書いていないので分かりませんが)。

さて話を戻しまして、このような「表現内容」を、「厳密な定型の約束のもとに表明するために、古今東西に語を求める」わけです。つまり、内容や心象をバッチリ詠みたいように詠みつつ、五七五七七にガッチリ嵌め込むために、あらゆる語を検討するということですね。この歌において斎藤茂吉は、「民族」という漢語、「エミグラチオ」というラテン語、「いにしへも」という和語(文語調)といったさまざまな言語リソースを使って、厳密な五七五七七を作り上げているということです。(ついでに言えば、ラテン語は英語やドイツ語と違って子音+母音のセットという音韻体系を持っており、これも日本語と同じ=親和性が高く、この点も筆者はプラス評価をしていますね)

というわけで、「全教養をあげて、〜忠実たらんと努めている」は、このようにさまざまな言語リソースを必死に参照して、内容と心象をバッチリ歌い上げつつ、定型にもガッチリ従っているということになります。

部分点

〈斎藤茂吉は詩作において〉、〈古今東西の多岐にわたる表現までをも真摯に検討〉し、〈詩歌に込める内容〈と心象〉を歌い上げること〉と、〈定型の枠に厳密に従うこと〉の両方に〈最大限の努力をしている〉ということ。

今回は「詩作において」とちょっと一般的な記述に寄せました。最初は「『民族の…』の歌において」と、この和歌に限定していました。これは、傍線部が「この歌における茂吉は」に続く箇所だからでして、それなりに妥当性があると思いますし、こちらの書き方でもいいと思います。が、「『民族の…』の歌において」という書き方は国語の答案として認められるのかちょっと不安だったので、「詩作において」と一般性を増させ、「当該の歌においても」の範囲をカバーしました。

部分点要素の順番は割と任意かなと思います。私は傍線部の順番で言い換えましたが、「ある表現内容を、この厳密な定型の約束のもとに表明するために、古今東西に語を求める態度」の順番で言い換えてもいいと思います。

「最大限の努力をしている」は「忠実たらんと努める」の言い換えです。これは自分で考えました。

読解後のつれづれ

私としては非常に興味深い課題文でした。確かに、五七五七七という枠組みを、私たちはなんとなく語感の良いものとして捉え(てしまっ)ていると思いますが、これってどこから来たんだろう。小学生の頃の国語教育でしょうか? これが日本語の良いリズムなんだよって先生に言われたんでしょうか。

まぁ学習指導要領がありますし、先生がそう教えるのが悪いと言いたいわけではありません。そして指導要領を批判したいわけでもありません(指導要領にも多少の恣意性があるとは思いますが)。

個人的に大事にしたいな〜と思うのは、(五七五七七みたいな)ともすれば「自然な不自然」みたいに言えるモノゴトがこの世には実はちらほらあって、私たちはそれにあんまり気づきませんが、時々それに気づく物好きな人もいて、そういう人が書いた文章を読むことは、世界の相対化にとってとても良いものだということです。

別に必ずしも世界の相対化が良いものとも言えないかもしれませんが、私は割と悪くないと思います。常に一人称で生きるのではなく、時々俯瞰して神の視点の気分になってみませんか?笑 国語はそのうえでも、先立つものになるんじゃないかな〜と思ってます。

なんかよ〜わからん感じになってしまいましたね。今回もお疲れ様でした!

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