京都大学 国語2022[一]解答例と解説

目次

総評

昭和三十一年の岡本太郎の文章からの出題でした。さすが芸術家、やや癖のある文章となっており、かなり感覚的な記述が多く見えます。ただ、思ったより爆発はしておらず、落ち着いた印象を持つことも確かです。

全体的に、「文章を素材として解答を組み立てる」というよりは、「文章をまるっと飲み込めばこのような解釈にならざるを得ないという内容を自分の言葉を混ぜつつ再構成する」という問題が多かった印象でした。個人的には、それ以上説明できないよ~って思った言葉は、解答の中でもそのまま使っちゃって良いんじゃないかなとも思います。減点を避けつつ、それ以外の箇所と一貫した記述とすることで点数をもらっていくためには現実的な戦略です。

解答例と解説

問一 

当時の日本の若い世代においては、日本の古典芸術家よりも西洋の古典芸術家の方が認知度が高く、普通なら日本のこれからの世代に受け継がれていくであろう日本の伝統文化よりも、西洋文化の方が残っていくのではないかと感じられるほどであるということ。

あんまり難しく考えすぎない方がいいんじゃないかなって思います。第一段落と第二段落の記述から書くより他ないです。「どっちがこれからの世代に受け継がれる伝統かわからない」というのは、「本来ならこっちのはずなのに、もぅ〜」という記述のように思います。もちろん、普通に考えれば受け継がれそうなのは(自国である)「日本の伝統芸術(およびその作者)」ですが、知名度では西洋の芸術家の方が勝っている。これが、「当時の日本の若い世代」における現状だということです。細かい点ですが、「今日の」をそのまま使わないようにしましょう。筆者にとっての「今日」であって、解答をつくる皆さんにとっての「今日」ではないですもんね。

部分点

〈当時の日本の若い世代においては、〉〈日本の古典芸術家よりも西洋の古典芸術家の方が認知度が高く、〉〈普通なら日本のこれからの世代に受け継がれていくであろう〉〈日本の伝統文化よりも、西洋文化の方が残っていく〉〈のではないかと感じられるほどである〉ということ。

最後の部分点は、傍線部の言い換えとして最も適切な形式を目指しましょう、という感じです。傍線部1は、筆者の現状把握を客観的に述べたものではなく、筆者の感覚も混ざった記述に思えます。「感じられる」と受け身にすると、状況記述と感覚性の両方を織り込むことができそうだなって思いました。

問二 

文化的に価値のあるものや伝統的な価値観が失われてしまったことを嘆くのではなく、その後悔と空虚を埋めるためにさらに優れた新しい芸術を作り、他者の耳目を集めることで、それを次の伝統文化に押し上げる意気を持った方が良いということ。

なかなかパワフルな比喩の問題です。さすが岡本太郎と言ったところ。「嘆いたところで始まらない」という内容はマストで入れたいです。また、傍線部より後の「もっと優れたものを作る」「それを伝統に押し上げる」といった内容も入れられると思います。

その上で、「法隆寺」が文中でどのような説明を受けているかも複合できるとさらに良いのではないかと。第三段落にある通り、「火災によってかえってポピュラーに」なったとあります。法隆寺は、伝統文化への関心の希薄化により「あがり(利益)」が少なかったのに、壁画の消失によってかえって世間の耳目を集め、見物人が増えた。法隆寺自体は、壁画の消失によって新しいものを生み出したわけではない気もしますが、「失われたことで注目された」という内容は、「法隆寺」という比喩から取り出すことができるんじゃないでしょうか。

部分点

〈文化的に価値のあるもの〉や〈伝統的な価値観が失われてしまったことを嘆くのではなく〉、〈その後悔と空虚を埋めるために〉〈さらに優れた新しい芸術を作り〉、〈他者の耳目を集めることで〉、〈それを次の伝統文化に押し上げる〉〈意気を持った方が良い〉ということ。

「文化的に価値があるものが失われる」=「法隆寺の壁画の焼失それ自体」であり、「伝統的な価値観が失われる」=「法隆寺の壁画が焼失しても世論調査では第九位」ということですので、別で書いた方がより良いと思います。にしても、「十大ニュース」ってちょっと珍しい言い方じゃないですか? 「重大」とかけてるのかしら。

文末表現もよく考えられると良いですね。もともとの傍線部は「なればよい」なので「〜した方が良い」が安全です。「〜するべきだ」って言っても間違いではないとは思いますが、「べきだ」まで言っているのかはちょっと言い切れないなと思いました。

問三

筆者は、日本の旧態依然とした伝統意識をくつがえすためにさまざまな伝統芸術に触れていたのに、いつの間にか打破したいと思っていたそれらの伝統意識に飲み込まれ、それを丁重に捉えている自分に気付いたから。

直前の「敵の手にのりかかっていた」を説明すれば良さそうです。「敵」とは、「日本のまちがった伝統意識」であり、筆者はそれを覆すためにさまざまな古典を見歩いていたと言います。しかしいつの間にか「神妙に石を凝視しすぎるくせがついた」、つまり伝統意識に支えられた「ただの石」をありがたがる態度がついてしまったということです。これは、本文の別のところから解答を作るという感じではなく、本文の前後を読んで「神妙に石を凝視しすぎる」とはどういうことなのかを別の言葉で説明するという頭の働かせ方な気がします。

本文中では「まちがった伝統意識」とありますが、解答例では「旧態依然とした」としています。当時の筆者(おそらく、この文章を書いている時の筆者ではなく、いろいろな古典を見歩いている時の筆者)にとっては、この伝統意識は「まちがって」いるのですが、今この瞬間に当該箇所を再解釈している我々にとっては、「正解があって、これは間違いだ」と言えるほど明瞭に、この伝統意識が「間違いだ」と言えるかは微妙です。その意味で、ややマイナス評価であり、「ちょっとオカシイ・やや間違いとも言える」といった雰囲気を纏っている「旧態依然とした」がしっくりくるかな〜と思いました。
こういう言葉の使い方ができると、私はチョットうれしくなります。

部分点

筆者は、〈日本の〈旧態依然とした〉伝統意識をくつがえすために〉〈さまざまな伝統芸術に触れていた〉のに、〈いつの間にか打破したいと思っていたそれらの伝統意識に飲み込まれ、〉〈それを丁重に捉えている〉〈自分に気付いた〉から。

はたまた文末表現について。「どうもアブナイ。」のように筆者が言うのはなぜか、なので、「アブナイ」という感覚を持つ原因としてのデキゴトを文末に持ってきたいです。今回は、「敵の手にのりかかっていたんじゃないか」という気づきを筆者が得た、というデキゴトを持ってきています。

問四

本物と呼べる芸術には、対象を取り巻く価値観やありがたみを感じる意識取り払った、即物的で単純素朴な視点をもって無造作な気分でぶつかってくる人間に対しても、心を打つ感覚や何かが伝わる感覚をもたらす可能性があるものだということ。

こちらも、直前の一文を丁寧に言い換えていく形になるかと思います。その際、あまり他の箇所の記述は素材になりにくい気がします。自分で言い換えるしかないのか……。「むぞうさな気分」は竜安寺の若者たち、『裸の王様』の子供の気分です。そんな気分でぶつかってくる者に対しても、「打ってくるものがある」「ビリビリつたわってくる」感覚をもたらすのが「芸術の力」というわけです。「打ってくる」「ビリビリ」は正直それ以上説明されていませんので、それっぽい言葉を捻り出した方が点はもらえそうです。良い解説にならなくて残念。

部分点

本物と呼べる〈芸術には、〈対象を取り巻く価値観やありがたみを感じる意識取り払った〉、〈即物的で単純素朴な視点をもって無造作な気分でぶつかってくる人間〉に対しても、〈心を打つ感覚〉や〈何かが伝わる感覚〉をもたらす可能性があるものだ〉ということ。

「それこそ芸術の力である」の言い換えですので、厳密には「本物の芸術とは〜〜だということ」としない方がいい気がします。「芸術の力」の説明であり、「芸術」の説明ではないので。私の解答例では、「芸術には〜〜の可能性があるものだということ」として「芸術の力」の説明としている感じですね。細かいやつめ!

問五

その時代の芸術を取り巻く旧来の価値観に退屈し、絶望している人間こそが、旧来の価値観に囚われず、素朴に新しい目で芸術を見、素直な感覚を抱くことができる。その視点をもとに旧来の伝統意識を打破し、価値観に囚われずとも人々の心を打つような優れたものを生み出し、新しい伝統とすることができる者。

エピソード中の小林秀雄は、伝統的な芸術の価値観を土台として美を感じている側の人として描かれています。一方で筆者(岡本太郎)はふんだんにある「美」に「退屈し、絶望している」わけですが、それは、小林秀雄が「美」の土台としている旧来の価値観に辟易としている様と見て取れます。旧来の価値観に辟易とする者は、その価値観に囚われずに坦懐な視線を注ぐことができます。そしてその価値観自体や、その価値観を土台とする芸術を叩き割り、反発力でさらに素晴らしいものを作り得る。そうしてできた新しいものが、まだ芸術的価値観の支えを得ていないにもかかわらず、他の人の心を動かすのであれば、それこそ本物の芸術であり、その後の伝統になっていける。そのような一連の営為を行える者こそが本物の芸術家であると。そんな感じです。たぶん。

あえて、前項の解説の中で「美」をかぎかっこで囲んだ箇所があります。岡本太郎から見た小林秀雄の「美」は、無印の(かぎかっこで囲まない)美とは違うということを(今解説を書いている私が)明示した箇所です。前にかぎかっこについてのコラムを書いたことがあります。もし手を休めるのならどうぞ。

部分点

〈その時代の芸術を取り巻く旧来の価値観に〉〈退屈し、絶望している人間〉こそが、〈旧来の価値観に囚われず、素朴に新しい目で芸術を見、素直な感覚を抱く〉ことができる。その視点をもとに〈旧来の伝統意識を打破し〉、〈価値観に囚われずとも人々の心を打つような優れたものを生み出し〉、〈新しい伝統とすることができる〉者。

解答が二文に分かれるのってどうなの?という声が聞こえてきそうですが、上手いこと繋げられるのであればアリなんじゃないかと思っています。「上手いこと繋ぐ」とは、指示語もしくは接続語を必ず使うということです。今回は「その視点」とすることで、前の文の記述を受けてまとめていることを明示し、二文であっても一連の解答としていることをアピールしています。

読解後のつれづれ

全体的にパワフルな比喩が多い文章ですが、第九段落の「登録商標つきの伝統」という表現が特に良いな〜って思いました。ここでの「登録商標つき」は、「相当する権威のお墨付きが付いている」みたいな感じでしょうか。そんな伝統は筆者にとっては「もうたくさん」であり、これに「ピシリと終止符が打たれ」るなら多少の代償(「一時的な空白、教養の低下」)など「お安いご用」だと。これかなり痛快な物言いですね。「登録商標」という語に、その辺をぎゅっと詰めておき、スパスパ切っていく第九段落は、かなり気持ちの良い読感を持っているように思いました。

おつかれさまでした!

この年の他の大問の解説

役に立ったらお友達にシェアしてね
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次