京都大学 国語2022[二]解答例と解説

目次

総評

読書に関する文章は数多くありますが、大抵は筆者の経験的な思想を綴る文章です。今回の課題文は、さまざまな具体例や懐古といった展開がありつつも〈邪読〉というラベル付けによって、比較的一貫した内容になっている気がしました。京大国語の課題文は、感覚と論理のバランスが良い文章が多いと思いますが、今回もまさにそんな感じ。

設問は、どこからどこまでを含めるかと設問同士の兼ね合いが難しい感じです。京大国語は通常、前の設問で解答素材とした部分を後の設問で使わないことが多いですが、今回の私の解答例ではちょっと同じ箇所を使っています。それが果たして皆さんの納得を得られるのかはドキドキですが、まぁご自分でも考えてみてくださいな。

解答例と解説

問一

もととなる物語中の登場人物の語りを契機に派生を繰り返したり、分離し独立させたりして、新しい物語を次々と生み出していく発想法。

直前に植物の比喩があり、「物語」に関する発想法からもっと抽象化して、「もととなる要素から新しい要素を生み出す発想法」みたいな感じにした方がいいのかなとは悩みました。が、傍線部(1)が含まれる段落の次の段落で、「この物語の発想に近い読書の仕方」という記述があるため、傍線部もあくまで「物語の発想法」の域を出ていないと思えたので、解答例でも「物語」としました。

直後の、「アラビア文化圏特有の存在論」という内容は不要かと思います。本文の主題が「存在論」にはなく、解答欄も二行と短めのためです。

かなり蛇足ですが、傍線部(1)が含まれる段落後半の仏教の例については、かなり「同じことであろう」の類比の抽象度が高いというか……あんまりわかりやすい例示とは言えない気がしました。というのも、アラビア文化圏の発想法(派生・独立の無限増殖)と、仏教の思念(地獄の中に極楽、極楽の中に地獄)に構造的な共通性はおそらく無く、「発想法と存在論って関係があるよね!」という程度の類比であると思うからです。解答には関わりない蛇足で長々とすみません!

部分点

〈もととなる物語中の登場人物の語りを契機に派生〉〈を繰り返したり〉、〈分離し独立させたり〉して、〈新しい物語を次々と生み出していく〉発想法。

「繰り返す」とすることで、本文中の物語や植物の例示をうまく接収できるように思います。ご参考までに。

問二

筆者は、思念の膨張のままに書物を読み、読後も印象的な部分やイメージが残るに過ぎず、内容を整然と要約し、紹介したり説明したりできる友人の読書には及ばないとも思えたから。

「ある後ろめたさ」を感じたのはなぜか、という問題ですので、何かがあったり、何かを思ったりしたから「後ろめたい気持ち」になった、という大枠です。「後ろめたい」はややふんわりした感情ですが、とりあえず「気が引ける」とかで考えてみますか。筆者の読書は、下降思念・死の誘惑から逃れるために、手当たり次第に読むというもので、問一の発想法のように、思念の派生・膨張に従って読むというものでした。その後に残るのは「想念を刺戟された部分」や「共感を伴うイメージ」であり、「結局自分の中に何が残っているんだろう」とも思えるものです。よって、内容を整然と紹介・説明できる友人の読書の在り方に対して、自分の読書が劣っているような気持ちと捉えられ、「気が引ける」→「後ろめたい」という感じでしょうか。

ここでいう「後ろめたさ」はあまり辞書的な字義に厳密に沿っていない気もします。

部分点

筆者は、〈思念の膨張のままに書物を読み〉、〈読後も印象的な部分やイメージが残るに過ぎず〉、〈内容を整然と要約し、紹介したり説明したりできる友人の読書〉には〈及ばない〉とも思えたから。

たぶん部分点には関わらない些末な点ですが、末尾を「とも思えたから」としたのはちょっとだけ意味があります。この解答箇所の後で、結局筆者はこのような逃避的な読書をそこそこ肯定的に思っていることがわかります。よって、「後ろめたさ」を抱いている時点でも、「自分の読書の在り方は全くもって劣っている」と思っていたのではないのでは?という推察です。正直点数には関わらないと思いますが、ちょっとこういうところに解答作成の妙を感じてしまうので、失礼いたしました。

問三

読書はそもそも自己の思想や他者との関係を一旦無にして他者の精神に接したり、確実で体系的な知識を身につけるために読むべきものであるのに、筆者の読書の態度はそうではなく、逃避のために気ままな自己思念の派生や膨張に従って書物に耽溺するというものだったから。

〈邪読〉は「邪道な読書」という意味でしょう。じゃあ逆に「正道な読書」とはなんぞや。傍線部直後の二点(他者の精神に接する、体系的な知識)ですね。これは比較的カンタン。「客観的精神の形成」や「認識と実践の統一」は、そのような読書の結果として成り立つものかなと思ったので、「正道な読書」の中身としては含めなくてもいいのかなとも思いましたが、入れてもいいのかもしれません。「そういうのの前提となる」とすれば中身の説明として扱い得ますし。その場合、「客観的精神」「認識と実践の統一」が一体何なのかはよくわかりません。のでそのまま書いてよろし。

一方で、筆者の読書の態度は、スタートが「死の誘惑からの逃避」であり、「想念の膨張に従って」読むものだということは問二の内容とやや被ります。そのうえで、傍線部(3)の含まれる段落の次の次の次の段落(=傍線部(4)が含まれる段落)では、〈邪読〉について、「こうした耽溺」と言っているので、〈邪読〉は耽溺という言葉を使って良さそうです。ということでこの辺りまで含めましょうか。

部分点

読書はそもそも〈自己の思想や他者との関係を一旦無にして他者の精神に接し〉たり、〈確実で体系的な知識を身につけるために読むべき〉ものであるのに、筆者の読書の態度はそうではなく、〈逃避のために〉〈気ままな自己思念の派生や膨張に従って〉〈書物に耽溺する〉というものだったから。

内容的には必須じゃないかな〜と思ったので、また部分点を振っていないのですが、「筆者の読書の態度はそうではなく」はあると嬉しいっちゃあ嬉しいかなと思いました。でも、「そうではなく」まで言わなくていいかも。「そもそも〜のに、筆者の読書の態度は〜だったから」でもいいですね。「そもそも〜のに、」というつなぎの力を感じます。こういうのを上手く使えるとちょっと強くなった気分になれます。

問四

読書に没頭した後にはその内容をほとんど忘れてしまうものだが、それは各自の精神の特性によって残るものが精選されるということであり、そういったはたらきがあることで精神的な自立が創造されるとも捉えられるから。

前問で、〈邪読〉とは耽溺であるとまとめました。こうした耽溺の後には〈忘却〉が伴います(筆者が、〈邪読〉→〈忘却〉としているのか、〈忘却〉までを含めてまるっと〈邪読〉としているかは微妙です)。

基本的には傍線部(4)の次段落の内容をまとめていきます。この〈忘却〉は、「創造的読書」の契機となるらしいですが、この後を読んでも「創造的読書」がどういうものなのかは判然としません(ので、そのまま使うしかない)。その後のショーペンハウエルやニーチェの例は、「周知のことに属する」とされていますが、私はよく知らん……(すみません)。本文にも詳述はないため、あまり解答に使えるとも思いづらいです。そしてようやくさらに後、「精神の濾過器」「精神に自立」という内容は、〈忘却〉と被る内容かと思いますので、説明していきましょう。

「精神の濾過器」は、「各自の精神の特性によって、何が残り何が忘却されるかが潜在的に決定されること」というような内容の比喩と思います。それがなければ「精神の自立」は存在しないと。「精神の自立」がどういうものなのか、どういう状態なのかはあまり説明が無いように思います。なのでそのまま使ってます。いや〜、それが一番わかりやすいんじゃないかなと……。

部分点

〈読書に没頭した後にはその内容をほとんど忘れてしまうものだ〉が、それは〈各自の精神の特性によって残るものが精選されるということ〉であり、そういったはたらきがあることで〈精神的な自立〉が〈創造される〉とも捉えられるから。

「創造的読書」が、「精神の自立をもたらす読書」と一致するのであれば、このような書き方で良いのではないかと思います。両者が一致しているとは明瞭に述べられていませんが、別物であるという説明もあまり読み取れないので、「創造」という要素は↑のように盛り込んでいます。

文末は、「〜とも捉えられるから(、その〈忘却〉にも意味がある)」とまとめています。(もちろんこれは筆者の主たる意見ではないですが、)〈忘却〉が別の捉え方をすれば「迂遠である」ということも筆者は認めており、この筆者の複眼的な視点の香りを残した文末表現としてみました。

問五

かつての筆者が書物を読んでいる間の思念の動きに身を任せてその書物と思念に耽溺していたように、各人がそれぞれの人生の時期にその個性に合った読書の形を作り出し、それを通して豊穣な時間をもたらすというもの。

「読書の本質」の範囲をどこまでと取るかと、「本文全体を踏まえて」のどうクリアするかがちょっとムズカシイですね。

傍線部(5)の前部分からして、中国文学を講じるための、また作家業のための読書、(つまり)下調べのための走り読みは、読書の本質から遠くなると。つまりこういった実際的な読書は読書の本質ではないようです。一方、「かつてあった豊饒な時間」はそれと対比的に描かれていますので、「読書の本質」に近いものなのでしょう。そこで私は「本文全体を踏まえて」をここで使いました。筆者のかつての読書の在り方は、ここまで再三説明してきたように、「思念に任せて耽溺する」読書です。とはいえ、これだけでは問三で説明した〈邪読〉の説明と同じになってしまいます。でも傍線部(5)を含む段落の冒頭でも〈邪読〉の話は出てきてるし、「本文全体を踏まえて」をクリアするためにはもう一度含めていいんじゃなかろうか、というのが私の意見です。〈邪読〉が筆者にとって「豊饒な時間」をもたらしていたというのはこの段落の内容から言えそうですし。

でもでも、「読書の本質」に関してはもう少し広げてもいいかと思います。それは、そのままだと〈邪読〉の説明で終わってしまうのと、傍線部の含まれる段落の後にも三つ段落があるからです。

筆者の〈邪読〉も、「一つの読書の在り方」であり、筆者はそれ以外の読書の態度があり得て良いと述べています。「各人がその人の個性にあった読書のかたちを造り出せば」良く、「それぞれの人生の時期」にさまざまな読書の型を経験するのが理想的だと。(それを筆者に当てはめると、かつて(人生の時期)の筆者における「個性にあった読書のかたち」が〈邪読〉であったという具現化となります。)たぶんここまでの抽象的な記述までを「読書の本質」として良いかと思います。

部分点

〈かつての筆者が書物を読んでいる間の思念の動きに身を任せてその書物と思念に耽溺していた〉ように、〈各人がそれぞれの人生の時期に〉〈その個性に合った読書の形を作り出し〉、それを通して〈豊穣な時間をもたらす〉というもの。

前の部分点がえらい大きくなってしまいましたが、これは問三で答えた内容を丸ごと短くした感じだからです。私としては、傍線部(5)「読書の本質」の説明において、〈邪読〉の内容を解答に盛り込まなくていいとはあまり思えませんでした。本文全体として、〈邪読〉は通底するテーマであり、筆者にとっての「読書の本質」の一翼を担っていると思えるからです。京大国語の解答戦略的には、それより前の問題で解答素材とした箇所を再度使うというのはあまりセオリーではありませんが、内容をよくよく考えた結果、やっぱあった方がいいんじゃねって思った次第です。間違ってたらごめんなさい。

読解後のつれづれ

傍線部(2)が含まれる段落中の「病」という表現が面白いなと思いました。筆者の妄想的読書への没入というか、何というかは、もはや病的なものだったのだなと。でも多分これって完全にマイナス表現ではないのでしょうね。病とは言っていますが、そんな「病んでる」自分もまた悪くないって思ってそう。

また、終盤で〈邪読〉を愛惜しつつも、「一つの読書のあり方ではあり得ても、他の読書のあり方を排除すべき権利も理由もない」としているのは、とても落ち着いた態度で良いな〜と思いました。〈邪読〉は筆者にとって豊饒な時間をもたらしてくれた愛すべき読み方であり、その愛おしさはしっかり述べつつも、そこのみに同一化されてしまうのではなく、ちゃんと自分と相対化することもできています。

末尾の一文、「理想は〜だろうが、人生そのものがそうであるように、人は一つの読書のあり方に比重をかけたまま、その生を終わらざるをえないのだろう」まで含めて、頭で考える理性・論理的な合理性と、生きる人間の感情・現実的な非合理性のバランスがとことん良い文章でした。

それでは、お疲れ様でした!

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