東京大学 国語2022[四]解答例と解説

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総評

東京大学の文科を目指す者へのメッセージでしかなく、選抜性はどれほどまであるのだろうかと思わされるような大問でした。本文の切り貼りでは到底何もできません本文を読み、理解を組み上げ、理解の隙間を自分の思考で補い、そうしてできた理解の塊から、問われていることに合わせて一本の解答を取り出すという感じです。解くのが難しいというより、考えるのに労力がかかるという感じでしょうか。

また、設問解説でも書きましたが、(四)はもしかすると筆者をも大きく超える問題なのかもしれません。

何はともあれ、ハードでタフな大問です。その分、皆さんの知的体力を鍛えるのにはかなり効きます。私の解説もその一助としていただければ幸いです。

解答例と解説

(一)

巨大な自然が持つ絶対的な力と対面して、感知し得ない宇宙の仕組みの存在を感じ、その大きく絶対的な存在に意識がとらえられていたから。

難しめ。解答欄も大きくないので密度を上げる必要があります。

第二段落と傍線部前後の内容を見ます。なぜ第二段落も見るかというと、キラウェア火山と同じく火山を見ている経験だから……というよりは、「(巨大な)自然」と筆者が対面して感じたことの要素がともに含まれているからです。「宇宙そのものと対峙するほどの意識をもつようになった人類も、結局は大きな、眼には感知しえない仕組の内にある」ということで、筆者がでっかい自然、つまり宇宙(の一部)と対面したとき、「人間も結局、なんか知らんけど宇宙の仕組みの中の存在だよな〜」って思ったって話です。その感知し得ない(意識それ自体を超える)宇宙の仕組み(大いなるもの)によって、意識はとらえられていたと述べています。宇宙の仕組みは「仕組み」です。仕組みとは「ああ動けばこう動く」みたいに、恣意とは少し遠いところにある気がします。よって、それに意識がとらえられてしまうと、小さな人間の意識はカタコト転がる仕組みの中で、仕組みの意のままに運ばれるしかありません(仕組みに意識はないので、これももちろん比喩です)。よって、「ひととしての意識は少しも働きはしなかった」となります。

そんな、カタコト転がる仕組みに意識をとらわれ運ばれていると、なんか「やって来る」ものがあるっていうのが今後の展開です。何がやって来るんでしょう。これは(四)に続きます。

それにしてもその仕組み、「感知し得ない」のに「感じる」っておかしくね?って私も最初思ったんですが、「仕組みを感じる」ではなく「仕組みの存在を感じる」もしくは「仕組みの内にいる(ある)ことを感じる」ということだと思います。「こういう仕組みだ」と感じるのではなく、「感知し得ない仕組みがある」ということを感じたり、「なんかわからんけど仕組みの中には居るんだろうな」と感じたりするという。伝われ〜!

蛇足ですが、第二段落が全部一文になっているので、もうちょっと区切ってくれてもいいのよ。古文みたい!って思いました。

部分点

〈巨大な〉〈自然が持つ絶対的な力と対面〉して、〈感知し得ない〉〈宇宙の仕組みの存在〉を感じ、その〈大きく絶対的な存在に意識がとらえられていた〉から。

「巨大な」は「巨大な火口」からとっています。「宇宙の仕組み」は第二段落の「眼には感知し得ない仕組」と、「宇宙の法則」を合わせていますが、「宇宙の」は必須ではないかと思います。「その大きく絶対的な存在」はを傍線部後の「大いなるもの」からとっています。

(二)

ケージの言葉は確かにその場の状況を適切に揶揄するものであったが、ロッジを支配する沈黙に対しては大きな意味を持たなかったということ。

この大問中では二番めに簡単かと思います。それでもムズカシイですが。。。

ケージの「nonsense!」、(歌うような)「バカラシイ」という発言は、「人々はたぶんごく素直な気持でその言葉を受容れていた」ことから、「適切」なものではあるはずです。だってバカラシイもん、人々が静かに黙って神妙に火口をずっと見ているなんて。

「だが私を含めて人々はケージの言葉をかならずしも否定的な意味で受けとめたのではなかった」、つまり、「nonsense」「バカラシイ」という言葉が通常の用法だと表すであろう「否定的な意味(その場の状況を、意味がないものと否定する意味)」が、周囲の人々に届いたわけではないということです。「またケージはこの沈黙の劇に註解を加えようとしたのでもない」という記述から、なんとまぁ、ケージ自身もこの場の状況を「なんて意味がなくバカラシイ。適切に否定してやろう」と思ってこういったわけではない(と筆者は思っている)ことが分かります。つまり、ケージも「巨大な自然と対面・圧倒され宇宙の仕組みに組み込まれ意識をとらえられ黙っている」という「沈黙の劇」の登場人物の一人であり、自身の「nonsense!」「バカラシイ」という「セリフ」は、その劇を沈黙から完全に解放したり、沈黙の劇を終了させたりすることはできないと(顕在的か潜在的かわかりませんが)思っていたうえで、そう言ったのだと推察できます。

宇宙の仕組みにとらわれた人間が、かろうじて発した「現場への適切な揶揄」であるが、それは「沈黙の劇」に対しては大きな意味を持たなかったし、おそらくケージ自身もそれはなんらかでわかっていた、という理解を筆者はしているものとして、解答を作っていきましょう。

部分点

〈ケージの言葉は〈確かにその場の状況を適切に〉揶揄するもの〉であったが、〈ロッジを支配する沈黙に対して〉は〈大きな意味を持たなかった〉ということ。

周囲がケージの言葉を受け容れていることを「その場の状況を適切に」の「適切に」含めています。

解答中に「その場」という指示語を用いていますが、ここでは指示関係を浮かせてもらって、後に来る「ロッジを支配する沈黙」で指示を与えています。先に「ロッジを支配する沈黙」を持ってきて、後を「その場」としてもいいかとも思いましたが、「大きな意味を持たなかった」のは「(宇宙のしくみにとらえられたことによる)沈黙が支配的であったから」という背景もより明らかにする努力として、後に「ロッジを支配する沈黙」を持ってきました。限られたスペースでより多くをすくい取ろうとする努力と見ていただけると幸いです。

蛇足ですが、ジョン・ケージの楽曲といえば「4分33秒」ですね! 知らない人は聴いてみてください。

(三)

フランスの音楽家たちは、未知の響きであるガムランの音色を対象化し、自分たちの音楽表現に組み込む新しい音的素材として捉えたということ。

この大問中では一番カンタンかと思います(簡単だとは言ってない)。

傍線部を含む段落の末尾、「その異質な音源を自分たちの音楽表現の論理へ組みこむことにも熱中」が直接の骨子となります。フランスの音楽家たちは、エキゾチックなガムランの響きを「未知の領域から響くもの」と受け取り、「自分たちの音楽理論に新しい素材を加えて考えることができるぞ」と思っていたということです。

ただ一点、「素材」として捉えるということは、「パーツ」として扱うということです。フランスの音楽家たちは、「ガムランの音」を「ガムランの演奏」から取り出し、別の場所に当てはめようとしています。これは、「ガムランの演奏(音楽)」から「ガムランの音」を対象化して、切り取って取り出すということができなければなりません。バリ島の人々は、「音楽と分ちがたく一致」しており、ガムランの音を対象化して切り取るなどは不可能です。フランスの音楽家たちはその点で、「音の内に在るということで音そのものと化す」という聴き方をしていたわけではないということもわかります。この点も盛り込めるとなお良さそうですね!

部分点

〈フランスの音楽家たち〉は、〈未知の響きであるガムランの音色〉を〈対象化〉し、〈自分たちの音楽表現に組み込む〉〈新しい音的素材として捉えた〉ということ。

「未知の響き」は「未知の領域から響くもの」からとっています。

本文では、「自分たちの音楽表現の論理へ組み込む」となっていますが、「論理」は省きました。「新しい音的素材」は「新資源」を解釈したものですが、「音的」を補うとさらにわかりやすいと思いました。

(四)

自然と対面する空間で影絵の演目を聴いて宇宙の側から超意識的にやってくるものを感じ、人間の音楽活動と宇宙の繋がり、音楽活動の意味を得心したように思えたということ。

ぐえ〜。ちょっと長くなってしまいましたが、これ以上煮詰めることができませんでした。ごめんなさい。難しいというか、途方もないという方が感覚に合っていると思います。

この課題文全体で述べられていることのうち、本問に盛り込みたいことは大きく二つあると思っています。

①自然と対面する空間で、人は宇宙の仕組みにとらわれているという感覚を得ることがある(信州、キラウェア火山)
②人間の音楽活動について(冒頭の段落、ガムラン)

この①・②の両方を受けて、傍線部の「何かをそこに見出した」を推測していきます。まずそれぞれを考えてみましょう。

①「自然と対面する空間で、人は宇宙の仕組みにとらわれているという感覚を得ることがある」については、(一)の理解があれば概ねOKです。自然と対面する空間で、自然に圧倒されることで、人間は自然に打ち勝てるようなものでも、自然から自立して存在するようなものでもなく、自然(宇宙)の仕組みの中で、カタカタと転がっている存在にすぎないのかもね、と思うって感じです。

②「人間の音楽活動について」はちょっとここで考えてみましょう。冒頭の段落で、筆者は今までの音楽活動について「たかが知れたこと」と述べており、この宇宙に対する人間の営為(人間活動)の小ささに関して、割とドライな態度を示しています。

その後のガムランに関する箇所では、音楽を「聴く」ということについて、「私たちはともすると記憶や知識の範囲でその行為を意味づけようとしがちなのではないか。ほんとうは、聴くということはそうしたことを超える行為であるはずである。それは音の内に在るということで音そのものと化すことなのだろう」と述べています。ただ、筆者は「バリ島の人々のごとくには、その音楽と分ちがたく一致することはないだろう」ともしており、完全な同一化でも対象化でもないところに自分が居ると感じています。つまり、筆者は音楽に対して、「意識を失う同一化」の側面と「意識的な対象化」の側面の両方を認識しています。

ここまで踏まえて、「影絵(ワヤン・クリット)」の話に参りましょう。影絵の舞台は「夜の暗さのなかで星が砂礫のように降りしき」る夜の、「そこだけはなおいっそう夜の気配の濃い片隅」です。また、のちに影絵についての老人の説明を受けて「これもまたバカラシイことかもしれない」と述べていますので、影絵はキラウェア火山を眺めるのと何がしかの共通点があると分かります。これらをバッサリまとめると、「自然と対面する空間」です。そして、①の内容から、そのような空間は「宇宙の仕組み」の存在感をもたらし、「意識を超えたところからやって来るもの」との橋渡しとなります。

さらに、この影絵は灯りを用いないもので、眼をこらしても何も見えはしませんでした。つまり、影絵から得られる情報は老人の呟くような説話のみです。老人は、その呟くような説話、灯りのない影絵で「宇宙と会話している」わけで、音楽性は極めて薄いものの、それを「聴く」ことによって「宇宙と繋がる」ものであるとは言えそうです。筆者が老人の説話を聴くのは、ガムランを聴いていた時のように「完全な同一化」でも「意識的な対象化」でもありません。没入と自意識が半々という感じでしょうか。筆者はそこで、やはり「意識の彼方からやってくるもの」を感じます。

自然と対面する空間で、宇宙との会話を、音への没入と自意識の狭間で聴くと、宇宙の仕組みの存在感がやって来る。この経験から、音楽とは「たかが知れたこと」ではあるんだけど、宇宙の仕組み、超意識的なものとの接続においては意味があるのかも知れないなということなのではないでしょうか。 

一点ご留意いただきたいのは、この傍線部「何かをそこに見出したように思った」の「何か」の答えを筆者が持っているとは限らなさそうという点です。てか、少なくとも顕在的には持ってなさそう。つまり、筆者はこの文章のこの箇所を書いたときに、「『何か』ってここでは書くけど、『何か』っていうのは実はあれこれのことなんだよね〜」と思っているわけではなさそうという話ですね。そりゃあまぁそうだろう。

つまり、この問題はおそらく筆者の意識範疇を超えていそうな気分がします。ということは、そこにあるのはまさに私たちと作問者の駆け引きです。我々は同じ課題文という土俵の上で、作問者はこの「何か」を何だと読み遂げたのかを辿るべく思考を巡らせます。土俵は一字一句変わらないはずですので、作問者と同じ帰結を辿ることは不可能ではありません。それが国語ってわけです。

でも一方で、作問者と一言一句同じ答えを書くことはほぼ不可能ですし、そうする必要もありません。その意味で、「自分の答え」で点をもらえる可能性も常に開けているのが国語ってわけでもあり、私はそれが結構スキです。

やや脱線しましたが、まぁ〜言いたいことは言えたかなと思います。難産でした。長くてすみません!

部分点

〈自然と対面する空間〉で〈影絵の演目を聴いて〉〈宇宙の側から〉〈超意識的にやってくるもの〉を感じ、〈人間の音楽活動と宇宙の繋がり〉、〈音楽活動の意味〉を〈得心したように思えた〉ということ。

「人間の音楽活動と宇宙の繋がり」と「音楽活動の意味」は「宇宙との繋がりをもたらすという音楽活動の意味」とかにまとめてもいいと思いますが、ちょっと意味が限定されてしまう印象もあります。

「得心したように思えた」は「見出したように思った」を割とそのまま言い換えています。別の表現でもいいと思いますが、「ように思えた」というニュアンスは残したいです。筆者も、何かを理解したとか得心したというわけではなく、「なんかこんな感じなんじゃね、って気がする」くらいだと思います。その点は残した方が良さそうかと。

読解後のつれづれ

いや〜大変でした。いくら文科だけの設問とはいえ、こんなん出して大丈夫か?と思いました。

今回面白かった記述としては、傍線部イが含まれる段落の中にある「人間もおかしければ穴だっておかしい」です。「穴は……おかしくなくね?」って思いました。笑 状況のバカラシさを作っているのは人間の側であり、火口は別にロッジを建てることも求めてないし継続的に「在る」だけだと思うんですが。まぁ状況を作った共犯者みたいに捉えてるんでしょうか。

あと、同段落の「ケージは〜くわえようとしたのでもない」も引っかかりました。というのも、日本語の三人称に対する語りでは、大抵「〜ようだ」「〜そうだ」が必要になるのに、ここではないな〜と思ったからです。「ケージは〜くわえようとしたのでもなさそうだった」とかじゃなく、「くわえようとしたのでもない」と言っています。

これって二つくらい解釈ができて、この時の筆者の視点がいわゆる「神の視点」であるとするのと、ケージの言動まで含めて丸ごと一人称的に断じているとするのとって感じです。ちょっと長くなってきたので割愛しますが、考えが広がりそうな人はぜひ考えてみてください。

最後、最終段落で通訳の名前が「ワヤン」で、影絵は「ワヤン・クリット」なのは何か背景があるんでしょうか。通訳のワヤンさんのお名前の由来が知りたいですね。本文からは知る由もない。

そんなこんなで、大変お疲れ様でした。高校生時点でこの大問に向き合えたのであれば、大変立派です。

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